【第1話】黄金のコインの秘密|黄金のコインが目覚め始めていた

        


 

        黄金のコインの秘密

副題|カタツムリの言葉

第1話|黄金のコインが目覚め始めていた

 

沈黙は、ときに嘘よりも残酷だった。

四週間後。

元請け開発会社・新規開発事業本部の大会議室。

誰かがペンを置く音がした。その小さな音さえひどく大きく感じられるほど、会議室は静まり返っていた。

長い会議テーブルの中央には、一冊の事業計画書が置かれていた。

五十ページ。

見た目には、ごくありふれた事業計画書だった。しかしその中には、不動産開発、商業施設運営、フランチャイズ、ブランド企画、物流事業をひとつにつなぐ構想が盛り込まれていた。

このときは、まだ誰も知らなかった。

この小さな事業計画書ひとつのせいで、人々が互いを利用し、奪い合い、ときには自分が誰と戦っているのかさえ分からない巨大な争いへと巻き込まれていくことを。

その争いの中で、ある者は権力を手にし、ある者はすべてを失うだろう。

古い愛と隠された欲望が絡み合う中で、長く忘れられていた黄金のコインの秘密も、少しずつ姿を現していくことになる。

会議室の正面に座っていた男が、事業計画書の最後のページをゆっくりと閉じた。

元請け開発会社の副社長、原田修司だった。

彼は計画書をテーブルの上に置き、しばらく何も言わなかった。向かいには、発表を終えた神崎彩乃部長が座っていた。

彩乃は、慣れた笑みを崩していなかった。彼女はプレゼンテーションが得意だった。話す速度を調整することができ、相手が興味を示す箇所では適度に間を取ることもできた。

事業の成長可能性を説明するときには自信に満ちた声を出し、投資リスクに関する質問には用意してきた資料を巧みに使った。

今日も発表そのものは見事だった。

だが、質疑応答が続くうちに、原田はある違和感に気づいた。

事業の大きな方向性を説明するときには淀みのなかった彩乃が、具体的な実行体制を問われると、たびたび資料へ視線を落とすのだ。

とくに、異なる事業をひとつにつなぐ方法について尋ねられると、彩乃は少し前に自分が話した説明を繰り返すばかりだった。

原田は、もう一度計画書に目を落とした。そして静かに口を開いた。

「神崎部長」

「はい、副社長」

「この事業計画書ですが」

原田は表紙を指先で軽く叩いた。

「本当に、神崎部長ご自身で作成されたものですか」


彩乃の笑みが、ほんのわずかに揺れた。

「……はい」

答えは遅かった。

原田は彩乃を見つめた。そして、もう一度尋ねた。

「本当ですか」

今度は、何の返答もなかった。

会議室の隅で紙をめくっていた社員の手が止まった。ある者は彩乃を見つめ、ある者はわざと視線を落とした。

西園寺麗奈は、その様子を静かに見守っていた。

丸山の会社の経営戦略を実質的に率いてきた彼女にとって、事業計画書の内容そのものは見慣れたものだった。しかし、彩乃の反応は想定とは違っていた。

自分で悩み、考え、書き上げた事業計画書であるなら、説明が足りなくとも、その判断の出発点くらいは語れるはずだった。

彩乃はまさにその一点で、ためらっていた。

長い沈黙の末、彩乃が口を開いた。

「正確に申し上げますと……」

声が少し小さくなった。

「この事業計画書を作成したのは、私の部下である桜井美咲です」

会議室の空気が変わった。

原田は特に表情を変えなかった。ただ、計画書を再び開いた。

三十六ページ。

彼の指が、ページの片隅に記された短い言葉の上で止まった。

『MDの拡張性』

ほんの短い表現だった。だが、その前後には、異なる事業を結びつけ、ひとつの事業から生まれた成果を次の事業へと拡張していく構造が描かれていた。

単に事業規模を大きくしたいという計画ではなかった。

何を先に実行し、その結果を次の事業にどう活かすのかまで考え抜かれた痕跡があった。

原田はしばらくそのページを見つめていた。そして、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「桜井美咲さん、とおっしゃいましたか」

「はい」

「その方は、今日はなぜ出席していないのですか」

彩乃が一瞬、視線をそらした。

「本日は体調が優れず、休暇を取っております。そのため、直属の上司である私が代わりにご説明いたしました」

だが、それは事実ではなかった。

その時、美咲はいつもどおり物流会社のオフィスで仕事をしていた。彩乃が彼女に会議への出席を指示しなかっただけだった。

原田は計画書をゆっくりと閉じた。

「そうですか」

短い沈黙が流れた。

「でしたら、次の会議には必ず桜井美咲さんを連れてきてください」

彼の声は、相変わらず落ち着いていた。

「私は、この事業計画書を実際に作成した本人から説明を聞きたい」

彩乃の唇が動いた。だが、言葉は出てこなかった。

麗奈は計画書の表紙をもう一度見た。

作成者。

神崎彩乃。

たしかに、そう書かれていた。

けれど今、この会議室で明らかになった名前は違っていた。

桜井美咲。

麗奈はその名前を知っていた。だが、その社員がこの五十ページの事業計画書まで書き上げたとは、予想していなかった。

原田は椅子の背にもたれた。彼の視線は再び計画書の表紙へ向けられていた。

何を考えているのか、誰にも分からなかった。

彩乃は自分の失態をどう収めるかを考えていた。麗奈は、初めて明かされた本当の作成者の名を心に刻んだ。

そして原田は、誰も予想しなかった計算を始めていた。

だが、その計算がどこへ向かうのかは、まだ誰にも分からなかった。

すべての始まりは、四週間前、タイのあるホテルからかけられた一本の電話にさかのぼる。

四週間前。

タイ。

大型ホテルの会議室。

西園寺麗奈は、ノートパソコンの画面に表示された開発事業の資料に目を通していた。

テーブルの上には、まだ確認できていない書類ファイルが何冊も積まれていた。

午前の会議が終わって間もなかったが、彼女には休む時間すらなかった。

「西園寺部長、午後の現地視察の日程が変更になりました」

元請け開発会社の女性チームリーダーが会議室に入ってきた。

「どのように変更されたのですか」

「現場を二か所、追加でご覧いただくことになりました。現地の担当者が、ぜひ直接ご説明したいとのことです」

麗奈は腕時計を確認した。

「今日中にすべて確認できますか」

「可能なように準備してあります。移動中にご覧いただく資料もございます」

チームリーダーは、分厚い書類ファイルをテーブルに置いた。

麗奈はしばらくその書類を見つめ、それからうなずいた。

「分かりました。出発時間を教えてください」

彼女は再びノートパソコンへ視線を戻した。

タイでは、大規模な共同開発事業が進められていた。

丸山の会社が保有する現地不動産を活用する事業だった。条件もよく、規模も大きい。会社の将来を考えれば、簡単に手放せる機会ではなかった。

だからこそ麗奈は、日本での重要な業務を残したまま、タイに来ていた。

だが、現地に到着してからの日程は、想像以上に過密だった。

ひとつ会議が終われば、新しい資料が届いた。現地視察を終えれば、また協議が続いた。夜になれば、その日に議論した内容を整理しなければならなかった。

元請け側の女性チームリーダーたちは、麗奈が移動する先々に同行した。次の予定を案内し、必要な資料を手渡し、彼女が確認すべき事項を絶えず追加していった。

麗奈は不満を口にしなかった。

事業が大きい以上、確認すべきことも多いのだろうと思ったからだ。

彼女はノートパソコンで日本側の事業進行表を開いた。

まだ確認できていない項目がひとつあった。

物流会社の企画案。

その資料が完成しなければ、丸山の会社の不動産開発構想と結びつけた総合事業計画書を作ることができなかった。

麗奈は電話を手に取った。

丸山恒一。

しばらくして呼び出し音が止んだ。

「はい、西園寺部長」

「丸山さん。物流会社から企画案は上がってきましたか」

「まだです。現在、検討中だと聞いています」

麗奈は再び画面へ目を向けた。

「まだ検討中ですか」

「はい。そのように報告を受けています」

「分かりました。進捗を確認してください」

「はい、部長」

通話は長くなかった。

麗奈は電話を置き、書類ファイルを手に取った。

そのとき、会議室のドアが再び開いた。

「西園寺部長、お車の準備ができました」

「今、参ります」

麗奈はノートパソコンを閉じ、元請け側のチームリーダーたちとともに会議室を出た。

しばらくしてホテルのロビー。

麗奈が車に乗り込むと、女性チームリーダーのひとりが別のチームリーダーに目配せをした。

もうひとりのチームリーダーは廊下の端へ歩いていき、携帯電話を取り出した。

「原田副社長」

電話の相手は、日本にいる元請け開発会社の副社長だった。

「西園寺部長は、ただいま二つ目の現場へ移動中です。午後の日程も予定どおり進んでおります」

電話の向こうから、低い声が返ってきた。

「そうですか」

「本日夜には、追加の検討会議もございます」

「分かりました。引き続き進行状況を報告してください」

「はい、副社長」

通話が終わった。

チームリーダーは携帯電話を鞄にしまい、麗奈が乗った車のほうへ戻っていった。

ホテルの前では、黒いセダンが一台ずつ出発していった。

麗奈は後部座席で、すでに次の資料を読み始めていた。

彼女が移動しているそのあいだにも、日本では別の電話が始まろうとしていた。

日本。

丸山の会社のオフィス。

丸山恒一は、麗奈との通話を終えると、物流会社の担当者の連絡先を確認した。

神崎彩乃。

最後に直接話したのは、たしか二か月ほど前だった。

そのときも彩乃は、関連業務を検討中だと言っていた。

丸山は、物流会社で仕事が継続的に進んでいるのだと思っていた。

そして二か月のあいだ特に問題が起きていなかったため、わざわざ再確認もしなかった。

彼は彩乃の番号を押した。

呼び出し音が鳴る。

日本のある物流会社。

午前十時を少し回ったころ。

神崎彩乃部長は、デスクの上に置かれた役員会用の発表資料を確認していた。

最近、社内では組織改編の話が出ていた。彼女にとっては、自分の能力を経営陣に示す絶好の機会だった。

発表資料の最後の数字を確かめようとしたその瞬間、電話が鳴った。

「はい、神崎です」

「神崎部長、お世話になっております。丸山です」

「ああ、丸山さん。どうされましたか」

「以前お願いしていた物流事業の企画案ですが、現在どのくらい進んでおりますか」

彩乃の手が止まった。

「物流事業……企画案、ですか?」

「はい。以前お話しした業務です」

彩乃はしばらく黙った。

「少々お待ちいただけますか」

彼女はパソコンで古いメールを検索し始めた。

丸山。

再下請け。

事業企画。

検索結果が画面に表示された。

あるファイルの作成日を確認した瞬間、彩乃の顔がこわばった。

四か月前。

「……あ」

ようやく記憶がよみがえった。

丸山の会社と物流会社の間で締結された再下請け契約。その契約に基づき、物流会社が準備すべき企画業務だった。

社内では、その関連業務が彩乃の部署に割り振られていた。主担当は彩乃自身だった。

当時、彩乃は契約書と関連資料が複雑であることを理解していた。

だが、締切までは十分に時間があると思っていた。急いで処理する必要はないと判断した。

その後、役員会や組織改編関連の仕事が続いた。経営陣に自分の実績を印象づけることも重要だった。

彩乃は発表が得意だった。相手が何に関心を持つかをすばやく見抜き、自分の成果を目立たせる方法も知っていた。

その一方で、複雑な実務を自ら深く掘り下げる仕事は、いつも後回しになった。

この会議が終わったら。

来週になったら。

月末報告が終わったら。

そうしているうちに、丸山の会社から依頼されていた業務そのものを忘れてしまった。

四か月近い時間が、そうして流れていった。

電話の向こうで丸山が再び声をかけた。

「神崎部長?」

彩乃は我に返った。

「あ、はい。現在、検討中です」

何事もなかったかのように答えた。

「ただ、担当者を調整しようと思っています」

「担当者の変更ですか?」

「はい。桜井美咲さんに任せるつもりです」

丸山の声が明るくなった。

「桜井さんですか」

「ご存じですか?」

「もちろんです。以前、別の業務でご一緒したことがあります。とても誠実で、資料も正確に整理してくださる方ですよ」

彩乃は微笑んだ。

「それなら良かったです」

「ええ。桜井さんなら安心です」

「今後、実務的な事項は美咲さんと直接確認していただければと思います」

通話は終わった。

彩乃は椅子の背にもたれた。少し考え込み、時計を見た。

役員会まで、あまり時間がなかった。

彼女は慌てて古い事業ファイルを探した。

事業概要。

物流関連の参考資料。

丸山の会社から受け取った説明資料。

いくつかの検討資料。

彩乃は見つけられる資料をひとつにまとめた。

だが、正確な契約条件を改めて確認しようとはしなかった。

四か月前に会社から受け取った押印済みの再下請け契約書は、デスクの引き出しにそのまま残っていた。

彩乃は、その契約書が自分の引き出しにあることさえ思い出していなかった。

彼女はオフィスの奥へ視線を向けた。

「美咲さん」

桜井美咲が顔を上げた。

「はい、部長」

「これ、お願い」

彩乃は業務ファイルを彼女の机の上に置いた。

「丸山の会社が進めている物流事業よ。今後は美咲さんが担当して」

美咲はファイルを開いた。

「新規業務ですか?」

「前にうちの部署で検討していた業務よ」

「どの程度まで進んでいますか?」

彩乃は書類を軽く指した。

「基本的な内容は入ってるわ」

美咲は数枚めくった。だが、作成済みの資料と、まだ確認が必要な資料が入り混じっていた。

「部長、最終的にどのような成果物を作成すればよろしいですか?」

「企画案としてまとめればいいの」

「既に確定している事業範囲は、どこで確認できますか?」

彩乃は腕時計に目を落とした。

「そういうのは、美咲さんが取引先に直接確認しないと」

そして、いつものように微笑んだ。

「分かるでしょ? いい感じにまとめておいて」




美咲は再びファイルへ目を落とした。

「確認してみます」

「そうして。丸山さんにも、担当が変わったって伝えてあるから」

そう言い残して、彩乃は会議室へ向かった。

美咲は、自分の机に残されたファイルを開いた。

資料がかなり前に作成されたものであることは分かった。だが、その間にどのような検討が行われ、何が決まったのかははっきりしなかった。

彼女は新しい業務ファイルを開いた。そして、その業務を引き継いだ日付を記録した。

このとき美咲は、まだ知らなかった。

自分に渡されたその仕事の裏に、四か月近い空白が隠れていることを。

美咲が物流会社に入社してから、もうすぐ四年になろうとしていた。

彼女は特別な肩書きを持つ人間ではなかった。ごく普通の実務担当者だった。

彩乃は、複数の部長が出席する会議に行くたび、美咲を連れていった。美咲が議事録を正確に作成できたからだ。

ある日開かれた事業協議の会議でも、それは同じだった。

営業部長が言った。

「事業を拡大するなら、現場対応の人員も増やさなければなりません」

物流部長が答えた。

「そのためには、まず運営体制の見直しが必要です」

財務部長も口を開いた。

「そのコストを負担できるかどうかも確認が必要ですね」

美咲は会議室の片隅に座り、静かに記録を取っていた。

彼女に決定権はなかった。だが、異なる部署の話を聞いていると、それぞれの業務がひとつの事業の中でつながっていることが見えてきた。

営業部の判断は物流部に影響を与えた。物流部の準備にはコストが必要だった。そのコストは、再び事業全体の判断と結びついていた。

美咲は議事録を書きながら、そうした関係を少しずつ学んでいった。

そんな経験が、四年間積み重なっていた。

彩乃も、美咲の能力を知っていた。

自分の部署で複雑な業務が発生すると、美咲に任せた。うまく進まなかった仕事も、美咲が資料を整理し、必要事項を確認すれば解決することが多かった。

すると彩乃は、その結果を持って会議に出席した。

成果は、彩乃の実績として紹介された。

しかし、問題が起きると話は変わった。

以前、彩乃の指示に従って資料を修正したことで、トラブルが生じたことがあった。

「誰がこんなふうにしろって言ったの?」

「部長が、その方向で進めるようにと……」

「私、そんな指示をした覚えはないけど?」

美咲は何も言えなかった。

たしかに指示は受けた。だが、それを確認できる記録は残っていなかった。

似たようなことが何度か繰り返されるうちに、美咲には小さな習慣ができた。

業務を引き継いだ日付を記録すること。

修正依頼はメールで残すこと。

修正前のファイルも保管すること。

未確定の事項には別途印をつけること。

誰かを攻撃するためではなかった。

自分がやっていないことまで、自分の責任にされる状況を防ぎたかっただけだった。

その日の午後。

美咲は、彩乃から渡された資料を整理していた。

そこへ電話が鳴った。

「はい、桜井です」

「桜井さん、お世話になっております。丸山です」

「丸山様、いつもお世話になっております」

「今回の業務をご担当いただくことになったと伺いました」

「はい」

「進捗はいかがでしょうか」

美咲は、モニターに開いた資料へ目を向けた。

「現在、確認中です」

「ああ、そうでしたか」

丸山の声が少し明るくなった。

「よろしくお願いします」

「はい。確認後、改めてご連絡いたします」

通話は終わった。

美咲は受話器を置き、再び資料を開いた。

彼女にとっては、ごく普通の進捗確認だった。

だが、丸山が受け取った意味は違っていた。

二か月前に彩乃へ尋ねたときも、業務は検討中だと説明された。そして今、美咲に尋ねたときも、返ってきた答えは同じだった。

丸山は、そのあいだ物流会社の内部で仕事が継続して進んでいたのだと思った。

彩乃が美咲へ仕事を渡したのも、その二か月前の通話以降の、どこかの時点だろうと勝手に想像した。

美咲が今まさに業務を引き継いだばかりだという事実までは、知らなかった。

彼には、仕事が順調に引き継がれ、進められているように見えていた。

美咲は、そんな誤解が生まれていることすら知らなかった。

彼女は資料を一枚ずつめくり始めた。

業務を担当した初日と二日目。

美咲は、彩乃から引き継いだ書類を机の上に広げた。

資料ごとに、作成時期が異なっていた。ある文書には検討済みのような印がついており、別の文書には、なお確認が必要だと記されていた。

美咲はファイルをひとつずつ突き合わせた。

確定している内容。

確認が必要な内容。

判断が必要な内容。

異なる資料に記された業務範囲が一致していない箇所もあった。

彼女は関係する文言を並べ、どこが違うのかを確認した。

ある文書では、物流会社が担当するとされていた。しかし別の文書では、責任主体が曖昧だった。

美咲は二日目まで、社内資料の整理を続けた。

抜けている内容には印をつけ、確認できない事項は別に区分した。

この作業は、取引先へそのまま送るためのものではなかった。

彩乃から渡された資料をもとに、自分が実際に企画案を作成するために必要な準備だった。

美咲は整理した資料をもう一度見返した。

これで、企画案にどのような内容を盛り込むべきか、輪郭が見え始めていた。

だが、最終的に判断しなければならない問題は、まだ残っていた。

美咲は彩乃のもとへ資料を持っていった。

「部長、確認が必要な部分があります」

彩乃は書類に目を落とした。

「どの部分?」

「資料によって業務範囲の記載が異なっています。どちらを基準に作成すればよろしいでしょうか」

彩乃は少し考えた。

「丸山さんが望んでいる方向に合わせればいいじゃない」

「その方向を確認したいのですが」

「そういうのは、取引先が決めることでしょ。直接聞いて」

彩乃は、再び役員会資料へ視線を戻した。

美咲は席へ戻り、電話を取った。

「丸山様、桜井です」

「桜井さん、こんにちは」

「引き継いだ資料を確認していて、伺いたい点がございます」

「はい、どうぞ」

美咲は、資料ごとに業務範囲の記載が異なっていることを説明した。

「どちらを基準に企画案を作成すればよろしいでしょうか」

丸山はしばらく黙った。

「できれば、全体的にうまく合うようにしていただけると助かります」

「優先して適用すべき基準はございますか?」

「うーん……」

彼は困ったように笑った。

「正確にご説明するのが、少し難しいですね」

美咲はペンを持ったまま、返答を待った。

丸山が再び言った。

「全体的に、いい感じにまとめていただければ」

美咲のペン先が止まった。

彩乃が言ったのと同じ言葉だった。

『いい感じに。』

けれど、二人が言う「いい感じ」が同じ意味なのかどうかは分からなかった。

美咲は、可能な方向性をいくつかに分けて整理することにした。

既存資料の業務範囲をできる限り維持する案。

確認できない事項は別にし、今後の判断によって調整できるようにする案。

どちらにしても、美咲一人で最終決定できることではなかった。

彼女は彩乃から受け取った資料を再び開いた。

ここからは、実際に企画案を作成する段階だった。

業務を引き継いで三日目。

美咲は、二日間の確認作業をもとに、企画案の最初の草案を完成させた。

既存の事業内容を改めて配置し直し、異なる業務がひとつの事業の中でどうつながっていくのかを整理した。

曖昧な部分には確認印を残した。

美咲は最後にファイルを見直した。

企画案・第一稿。

そして丸山へメールを送った。

『丸山様

引き継いだ資料を確認のうえ、物流事業企画案の第一稿を作成いたしました。

確認が必要な箇所には、別途印を付けております。

ご確認のうえ、修正が必要な箇所をご教示いただければ反映いたします。

よろしくお願いいたします。』

メール送信後も、美咲はほかの業務を処理していた。

丸山からの返事は、翌朝届いた。

業務を引き継いで四日目。

最初の修正依頼だった。

『桜井様

資料、拝見しました。全体として良い部分が多いと思います。

ただ、私が考えていたイメージとは少し違います。

もう少し良い感じになるよう修正をお願いできますでしょうか。

よろしくお願いいたします。』

美咲はメールを読んで、しばらく考えた。

良い部分が多い、と書いてある。

だが、何が違うのかは書かれていなかった。

彼女は企画案を再び開いた。

説明の順序を変え、複雑な内容が伝わりやすいように整理し直した。重要な部分は前へ移し、互いに関連する項目はひとつの流れとしてまとめた。

修正できる範囲を補ったあと、その日のうちに第二稿を送った。

『ご意見を踏まえ、企画案の構成および説明方法を修正いたしました。

追加で確認が必要な点がございましたら、具体的にお知らせいただけますと幸いです。

よろしくお願いいたします。』

翌朝。

業務を引き継いで五日目だった。

丸山から、二度目の修正依頼が届いた。

『前回よりかなり良くなりました。

ただ、全体としてもう少し良い感じになるように整理していただけますでしょうか。』

美咲は画面を見つめた。

「……いい感じ、か」

彼女は再びファイルを開いた。

今度は、相手が何を重視しているのか、いくつもの方向から考えた。説明を削るべき部分は削り、根拠が必要な部分は補った。

企画案は、以前よりはるかに具体的に整理された。

その日のうちに、美咲は第三稿を作成し、丸山へ送った。

『企画案の全体構成と主要内容を改めて補強いたしました。

なお、最終判断が必要な事項については区分したままにしております。

ご確認のうえ、ご意見をいただけますと幸いです。』

そして翌朝。

土曜日だった。

物流会社は土日が休みだったが、美咲は終わらない企画案のために、その日も自宅でノートパソコンを開いていた。

業務を引き継いで六日目。

三度目の修正依頼が届いた。

『何度も修正いただきありがとうございます。

内容は以前よりずっと良くなっています。

ただ、私が最終的に想定していた形とは、まだ少し差があります。』

美咲はしばらくモニターを見つめた。

「……どんな形なんですか」

誰にも聞こえないほど小さな声だった。

資料が悪くなっているわけではなかった。最初の企画案より、はるかに整理されていた。

丸山もその事実は認めていた。

けれど、最終的に何を求めているのかは、依然としてはっきりしなかった。

美咲は丸山へ電話をかけた。

「丸山様、修正依頼を確認いたしました」

「桜井さん、何度もお手数をおかけして申し訳ありません」

「いえ。ただ、今回はどの部分が不足しているのか、具体的に確認したいと思いまして」

「はい」

「これまでご要望いただいた修正は、ほとんど反映しております。追加で必要な内容がございましたら、その部分を中心に補います」

丸山はしばらく黙っていた。

彼は、美咲から送られてきた企画案を改めて開いた。

実際、資料はよく整理されていた。読みやすくもなっていた。

だが、それを自分が最終的に確定してよいものかどうか、判断できなかった。

企画案を読めば読むほど、自分が何を分かっていないのかが、逆にはっきりしていく気がした。

「桜井さん」

「はい」

「もう少し、全体的な完成度を高めることはできますか」

美咲はペンを置いた。

「どの部分を指しているのか、ご説明いただけると助かります」

「うーん……」

丸山は答えられなかった。

気まずい沈黙が流れた。

彼は結局、また言った。

「もう少しだけ、いい感じにお願いできますか」

美咲はゆっくりと目を閉じた。そして短く答えた。

「……承知しました。もう一度、見直します」

通話は終わった。

美咲は以前のファイルを順に開いた。

第一稿。

第二稿。

第三稿。

自分がどのような依頼を受け、何を変えてきたのかを、もう一度確認した。

今回も修正できる部分はあった。だが、誰かが最終的に判断しなければならない問題まで、自分が決めることはできなかった。

美咲は三度目の修正依頼に応じて、必要な箇所をもう一度補強した。

そして修正した企画案を丸山に送った。

その後、休日がやってきた。

美咲はこれまで処理した業務と修正履歴を整理しておいた。丸山へ送った企画案と、受け取った修正依頼もすべて記録として残した。

日曜日の午後。

美咲は久しぶりに、自宅で穏やかな時間を過ごしていた。

リビングにはやわらかな陽射しが差し込み、ソファの片隅では猫のヨジョンイが体を丸めて眠っていた。

犬のチェリーはソファの下で伏せ、美咲を見上げていた。

そのとき、携帯電話が鳴った。

画面に表示された名前を見て、美咲の表情が明るくなった。

アメリカに住む実の姉だった。

「お姉ちゃん!」

「美咲、元気にしてる?」

「うん。お姉ちゃんは?」

「私もこっちで元気にやってるわ」

美咲は、ソファの下でうとうとしているチェリーを見て笑った。

「今、お姉ちゃんが預けていったチェリーとヨジョンイも元気だよ。チェリーは私の足元でうとうとしてるし、ヨジョンイはソファを自分の場所みたいに使ってる」

「そう。ちゃんと面倒見てくれてありがとう。美咲、あんまり無理しすぎないでね。体も大事にしなさい」

「うん。お姉ちゃんも元気でいてね」

通話が終わった。

美咲は携帯電話を置き、チェリーの頭を撫でた。

「チェリー、今日は私もちょっと休もうかな」

チェリーは一度だけ尻尾を振り、再び気持ちよさそうに横になった。

この一週間、複雑な事業資料を確認し、企画案を何度も書き直したせいか、体が重かった。

美咲はソファに体を預けた。

ヨジョンイがそっと近づいてきて、彼女のそばに丸く収まった。

「ヨジョンイも眠いの?」

美咲は笑いながら、猫の背を撫でた。

ほんの少し、目を閉じるだけのつもりだった。

ところが、ほどなくして、リビングの静かな空気は消え去った。

ゴロゴロゴロッ!

空を引き裂くような雷鳴。

美咲は目を開けた。

そこには、もうリビングはなかった。

果てしなく広がる雲の上。

黄金の鎧をまとった無数の兵士たちが、空を埋め尽くしていた。

巨大な黄金の旗が風にはためいていた。

その向こう側では、黒い雲を突き破り、果ての見えない魔界の軍勢が押し寄せてきていた。

美咲は、自分が高い空の上にいることに気づいた。

足元では、やわらかな白いたてがみが風に揺れていた。

まばゆいほどに白い体。

額から伸びる長い角。

そして両脇に大きく広がる翼。

彼女は、翼を持つ白いユニコーンの背に乗っていた。

美咲は、自分の姿を見下ろした。

燦然と輝く黄金の鎧。

風にはためく赤いマント。

そして、右手を包み込む青い光。

バチッ――!

指先から、小さな稲妻が弾けた。

「これ……何?」

その瞬間、雲の下から無数の声が響き渡った。

「軍団長様!」

美咲が顔を上げた。

果てしなく連なる天上界の軍勢が、彼女を見上げていた。

数え切れないほどの黄金の槍と旗が、一斉に空へ向けられていた。

彼女は、自分へ声を上げる兵士たちを見つめた。

誰かの命令を待っている目だった。

まるで、自分がひと言命じさえすれば、この巨大な軍勢すべてが動き出すかのようだった。

そのときだった。

黒い雲のあいだから、ひとつの巨大な影が現れた。

翼のある虎。

それは美咲のそばを飛び、魔界の軍勢へ向かって鋭く咆哮した。

初めて見るはずの虎なのに、不思議と懐かしかった。

美咲が手を伸ばしかけた、その瞬間、遠くから黒い軍勢が一斉に突進してきた。

空が震えた。

黄金の兵士たちが、一斉に盾を掲げる。

美咲は自分でも分からないまま、右手を高く掲げた。

ゴロゴロゴロッ!

青い稲妻が、黒い雲を裂いた。




天を横切った巨大な稲妻が、魔界の軍勢の先頭を覆い尽くした。

天上界の兵士たちが、一斉に歓声を上げた。

「軍団長様!」

その瞬間、美咲の黄金の鎧の胸元あたりで、小さな円形の紋様がまばゆく輝いた。

まるで、古い黄金のコインのようだった。

美咲がその紋様を見下ろそうとした瞬間だった。

「軍団長様! 危険です!」

どこからか、切迫した叫びが聞こえた。

巨大な黒い影が、彼女へと襲いかかってきた。

「――っ!」

美咲はソファの上で、はっと身を起こした。

心臓が激しく脈打っていた。

目の前には、見慣れたリビングがあった。

窓の外では、午後の陽射しが差し込んでいた。

美咲は自分の両手を見下ろした。

どこにでもある、普通の手だった。

稲妻もなかった。

黄金の鎧もなかった。

「……何、この夢」

彼女は額ににじんだ汗を拭った。

そのとき、ソファのそばから小さな声がした。

「ニャア」

ヨジョンイが、美咲を見上げていた。

美咲は猫の顔を見つめたまま、一瞬、息を止めた。

さっき夢の中で、自分のそばを飛んでいた巨大な虎の眼差しが、ふと脳裏をよぎった気がしたのだ。

だが次の瞬間、ヨジョンイはごく普通の猫の姿のまま、美咲の手に頬をこすりつけた。

「……私、よっぽど疲れてるのかも」

美咲は小さく笑った。

するとチェリーが歩み寄り、美咲の膝に顎をのせた。

美咲がチェリーの頭を撫でる。

すると今度は、夢の中で自分を乗せて空を駆けていた白いユニコーンの、やさしい眼差しが浮かんだ。

美咲は首を振った。

チェリーとヨジョンイを交互に見つめ、それから静かに息を吐いた。

チェリーは尻尾を振った。ヨジョンイは何事もなかったように、またソファの上で体を丸めた。

美咲は水を一杯飲み、窓の外を見た。時間が経つにつれて、夢の情景は少しずつぼやけていった。

それでも、ひとつだけ妙に鮮明に残っているものがあった。

雲の上で自分へ向かって叫んでいた無数の兵士たちの声。そして、自分の右手からほとばしっていた青い稲妻。

美咲はしばらく、自分の指先を見つめていた。

「……本当に、変な夢だった」

彼女は再びソファに座った。

チェリーは美咲の足元に伏せ、ヨジョンイは静かに目を閉じた。

休日の穏やかな午後が、またゆっくりと流れ始めた。

美咲は、自分が見た夢が何を意味するのか知らなかった。ただ、この一週間あまりにも疲れていたせいだろうと思った。

休日が明ければ、また仕事を進めなければならなかった。

だが、そのあいだにも、丸山の会社では別の時間が流れていた。

三週間前。

休日明けの月曜日。

丸山の机の片隅には、麗奈と通話したあと確認できていなかった契約関係の書類が置かれていた。

彼は美咲が送ってきた企画案をもう一度読み返した。

企画案は確実に良くなっていた。

だが、その企画案だけで元請けに提出する総合事業計画書を完成させられるのか、自信が持てなかった。

丸山は書類を閉じ、また開いた。

電話を手に取っては、また置いた。

美咲に、もう一度修正を頼めばいいのだろうか。それとも、麗奈部長に再び確認すべきなのだろうか。

麗奈はタイで重要な交渉に追われていた。

それに、自分はすでに麗奈に対し、物流会社の企画案の進捗を確認すると約束していた。

丸山は小さくため息をついた。

「……どうすればいいんだ」

そのとき、携帯電話が鳴った。

画面には、西園寺麗奈の名前が表示されていた。

丸山は慌てて電話を取った。

「はい、西園寺部長」

タイからの電話だった。

「丸山さん。元請けに提出する総合事業計画書は、どこまで進んでいますか」

「物流会社のほうで企画案を継続して修正しています」

「まだ完成していないのですか?」

「はい。桜井さんが非常によく整理してくださってはいるのですが、もう少し修正が必要な状況です」

麗奈は一瞬、黙った。

「丸山さん」

「はい」

「元請けと締結した契約書の、事業計画書提出期限は確認しましたか」

丸山の手が止まった。

「提出期限……ですか?」

「そうです。契約書に定められた日付を、ご自身で直接確認してください」

彼女の声は落ち着いていたが、はっきりしていた。

「物流会社の企画案が完成してこそ、うちの不動産開発計画と結びつけて元請けへ提出できます」

「……はい」

「ですから、物流会社の担当者には、企画案を急いで仕上げるよう求めてください。今は、修正ばかり続けている場合ではありません」

丸山は姿勢を正した。

「承知しました、部長」

「期限を確認し、現状も整理してください」

「はい。すぐ確認します」

通話は終わった。

タイの麗奈は、そのまま別の会議へ向かった。

会議室の前では、元請け側の女性チームリーダーたちが待っていた。

「西園寺部長、現地開発事業に関する追加の検討資料が届いております」

麗奈はファイルを受け取った。

「会議室へ持ってきてください」

廊下の端では、別のチームリーダーが携帯電話を取り出していた。

「原田副社長。西園寺部長は予定どおり現地協議を進めておられます」

チームリーダーは追加業務と、次の現地視察の日程についても報告した。

「はい。次の予定も滞りなく準備いたします」

通話が終わった。

麗奈はすでに会議室の中で、新しい書類を広げていた。

彼女の予定には、休む隙がなかった。

日本。

丸山の会社のオフィス。

丸山は麗奈との通話を終えるやいなや、元請け契約に関する書類を探し始めた。

二千ページに及ぶ分厚い契約書だった。

彼は目次をたどり、事業計画書の提出期限が記された箇所を探していった。

何ページかめくった末に、日付が目に入った。

丸山はカレンダーを確認した。

そして再び契約書を見た。

「……え?」

彼は指で、残り日数を数えた。

契約書に記された提出期限は、自分が思っていたより、はるかに近かった。

丸山の顔から血の気が引いた。

「こんなに早かったのか……?」

彼は引き出しから古い交渉資料を取り出した。

麗奈が元請けと最終合意した条件を整理した資料だった。

そこに記された日程と、いま目の前にある押印済み契約書の日程は違っていた。

二か月。

現在の契約書に記された提出期限は、麗奈が合意していたスケジュールより二か月も早かった。

丸山は二つの書類を交互に見た。

「なぜ日付が違うんだ……?」

最終契約書に押印したときのことが脳裏によみがえった。

元請け側は、契約書の誤字脱字や一部の表現を整えただけだと説明していた。

丸山は、重要な内容は変わっていないものだと思い込んでいた。

麗奈がすでに交渉を終えた契約だった。自分は、最終合意された条件に従って押印すればいいと信じていた。

ところが、今、目の前にある日付は違っていた。

丸山は契約書をもう一度読んだ。

問題は日付だけではなかった。

ある条項が実際の事業にどう影響するのか、自分は十分に理解できていなかったのだ。

彼は、もう一度麗奈に電話をかけるべきかと考えた。

だが麗奈は、タイで重要な交渉の最中だった。

自分が、確認すべき契約期限すら把握していなかったと打ち明けるのも気が重かった。

丸山は電話を手に取っては、また置いた。

そして、再びカレンダーを見た。

残された時間は、自分が想像していたよりはるかに短かった。

物流会社の企画案は、まだ完成していない。

その企画案がなければ、自分の会社で元請けへ提出する総合事業計画書は作れない。

どこから手をつければよいのか、分からなかった。

丸山は、美咲が送ってきた企画案を再び開いた。

資料は良かった。

だが、その資料のどこをさらに補えば契約条件を満たせるのか、彼には判断できなかった。

彼はしばらく、モニターを見つめていた。

夜は深まっていた。

オフィスの外の廊下では、最後に退勤する社員たちの足音が聞こえた。

丸山は新規メール作成画面を開いた。

宛先。

桜井美咲。

彼は文章を書いては消し、また書いては止まった。

自分が何を求めるべきなのか、それすらはっきりしていなかった。

それでも、もうこれ以上、時間を無駄にはできなかった。

丸山は結局、メールを書いた。

そして送信ボタンを押した。

午後十時四十一分。

物流会社のオフィス。

美咲は、まだ退勤できずにいた。

彼女は昼間に整理していた資料を見直していた。

オフィスの照明は一部だけが灯っていた。

ほかの社員たちはすでに全員退勤していた。

机の上には、冷めきったコーヒーが置かれていた。

そのときだった。

パソコンから短い通知音が鳴った。

新着メール。

差出人。

丸山恒一。

美咲は時計を見た。

午後十時四十一分。

こんな時間に?

丸山からの修正依頼は、いつも午前中に届いていた。

美咲は妙な胸騒ぎを覚えながら、メールを開いた。

『桜井様

遅い時間にご連絡してしまい、申し訳ありません。

何度も修正いただき、ありがとうございます。

資料は以前よりずっと良くなっております。

ただ、私が考えていた最終的なイメージとは、まだ少し違うように思います。

申し訳ありませんが、可能であれば明日の午前中までに、もう一度修正していただけますでしょうか。

急なお願いとなり、本当に申し訳ありません。

どうぞよろしくお願いいたします。』

四度目の修正依頼だった。

美咲は画面を見つめた。

『可能であれば明日の午前中までに。』

その一文が目に入った。

これまで、丸山がここまで急いだことはなかった。

彼はいつも丁寧だった。

今回も丁寧だった。

だが、何かが違っていた。

美咲は以前のメールを順に開いた。

一度目の修正依頼。

二度目の修正依頼。

三度目の修正依頼。

そして、今夜届いた四度目の修正依頼。

これまで午前中に届いていたメールと違い、今回のメールは夜遅い時間に送られていた。

彼女は最後の一文をもう一度読み返した。

『急なお願いとなり、本当に申し訳ありません。』

なぜ急に、こんなに慌て始めたのだろう。

美咲は、自分が受け取った資料をもう一度見直した。

業務を引き継いだとき、彩乃は特に急ぎだとは言わなかった。丸山も、正確な提出期限までは伝えなかった。

なのに今は、明日の午前中までにもう一度修正してほしいと言っている。

美咲は新規メール作成画面を開いた。

『どの部分を修正すればよろしいでしょうか。』

そう打ち込んだ。

だが、そこで手が止まった。

同じことは、もう何度も尋ねていた。

彩乃にも確認した。

丸山にも確認した。

それでも返ってくる言葉は、いつも似ていた。

「いい感じに。」

美咲はしばらく目を閉じた。

修正そのものが難しいわけではなかった。

何を直せばいいのか分かれば、また直せばいい。

だが、基準のないまま修正を続けても終わりはない。

彼女は、作成中のメールに確認事項を書き足した。

最終判断の基準。

修正が必要な具体的箇所。

確定している業務範囲。

実際の提出期限。

確認すべき事項を整理したうえで、メールは下書き保存した。

そして業務記録ファイルを開いた。

最初に業務を引き継いだ日付。

第一稿の送信日。

第二稿の送信日。

第三稿の送信日。

丸山からの一度目の修正依頼。

二度目の修正依頼。

三度目の修正依頼。

そして、今夜届いた四度目の修正依頼。

美咲は、自分が実際に行った作業と、相手が要求してきた内容を分けて整理した。

彼女が作り直してきた資料は、確実に良くなっていた。しかし、まだ誰かが決めなければならない問題も残っていた。

美咲は画面に表示された古い資料の日付を確認した。

四か月前。

そして、自分が業務を引き継いだ日付をもう一度見た。

その二つの日付のあいだには、長い時間が横たわっていた。

その間に誰が何をし、どこまで検討していたのか。自分が受け取った資料だけでは分からなかった。

美咲はしばらく考えた末、業務記録を保存した。

自分にできることははっきりしていた。

分からないことは確認する。

依頼されたことは正確に処理する。

そして、その過程を記録として残す。

彼女は、すでに退勤した彩乃の空席を見た。

そこには、もう誰もいなかった。

美咲は再びモニターへ視線を戻した。

丸山からのメールは、まだ開いたままだった。

『可能であれば明日の午前中までに。』

遠く離れたタイでは、麗奈が今もなお元請けの開発事業資料を確認していた。

丸山は、契約書の期限を確認したあと、何をどうすればいいのか分からず焦っていた。

彩乃は、自分が四か月近く放置していた業務を美咲へ渡したあと、再び社内政治と昇進へ意識を向けていた。

そして美咲は、そのすべての事情を知らないまま、今日も与えられた仕事を誠実にこなしていた。

しかし、契約書に書かれた日付は待ってはくれない。

遠からず、誰かが問うことになるだろう。

「なぜ、まだ終わっていないのですか」

その問いが出たとき、もう「いい感じに」という言葉だけでは済まされない。

誰がその業務を担当していたのか。

いつから進めていたのか。

何を決め、何を先送りにしたのか。

そのすべてを確認したあと、必ず責任が問われることになる。

そして、その責任が問われるとき、真っ先に名前が挙がるのは――

皮肉にも、最後にその仕事を引き継いだ桜井美咲なのだった。

(第2話へつづく)


【本作品とAI画像について】

本作品はフィクションです。

登場する人物・企業・団体・物語はすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは関係ありません。

掲載している人物や背景などの画像は、AIを使用して制作したものです。

実在の人物を撮影した写真ではありません。 


댓글

이 블로그의 인기 게시물

(#1-6) 謝罪の夜、 2000ページの罠が動き出す

(#1-5) 言った、言わない。|私は全部、残していた。