(#1-5) 言った、言わない。|私は全部、残していた。
【カタツムリの言葉 #1-5】
「1000ページの契約書」
今日も一日、
お疲れ様でした。
私は桜井美咲。
責任だけが、
私の前に残っていました。
取引先も。
上司も。
少しずつ距離を
取り始めていたのです。
翌朝。
私は神崎彩乃に報告しました。
「丸山さんから連絡がありました。」
神崎さんは
パソコンの画面を見たまま聞きました。
「何て?」
私は答えました。
「契約書どおりに
進めてほしいそうです。」
その瞬間でした。
神崎さんの表情が
わずかに固まりました。
「契約書?」

小さくつぶやいた直後。
彼女の電話が鳴りました。
発信者は、
取引先の女性上司。
西園寺レシナさんでした。
神崎さんは席を立ち、
会議室へ向かいました。
私は何気なく
仕事を続けていました。
しかし。
数十分後。
会議室から戻ってきた
神崎さんの顔色は、
明らかに変わっていました。
青ざめていたのです。
その時の私はまだ知りませんでした。
数か月前。
取引先から送られてきた
1000ページを超える
契約書があったことを。
神崎さんは当時、
「後で読もう。」
そう思って
机の引き出しへ入れました。
昇進を控えた社内政治。
他部署との競争。
会議と根回し。
日々の業務に追われるうちに、
契約書の存在そのものを
忘れてしまっていたのです。
そして今。
西園寺さんからの電話で、
その契約書の存在を思い出しました。
電話の内容は単純でした。
契約上の提出期限が
近づいていること。
契約不履行の場合、
違約金が発生する可能性があること。
そして。
取引先側は契約条項に従って
進めるつもりだということでした。
電話を終えた神崎さんは、
慌てて机の引き出しを開けました。
奥に押し込まれたままの
分厚い契約書。
積もった埃。
彼女は西園寺さんから伝えられた
条項だけを確認しました。
そこには確かに、
違約金に関する記載がありました。
神崎さんはしばらく黙り込みました。
そして夕方。
私は会議室へ呼ばれました。
机の上には、
巨大な契約書が置かれていました。
神崎さんはそれを
私の方へ押しました。
「これ、読んで。」
私は驚きました。
「契約書ですか?」
神崎さんは小さく頷きました。
そして続けました。
「最初から渡していたことにして。」
私は言葉を失いました。
「え……?」
「あなたも見ていたことにして。」
その声はどこか焦っていました。
私は何も言えませんでした。
契約書を抱え、
自分の席へ戻りました。
誰もいない夜のオフィス。
静かな蛍光灯。
積み上がる資料。
そして1000ページの契約書。
私は最初のページから
読み始めました。
契約書。
メール。
チャット。
修正依頼。
送信日時。
受信日時。
すべてを時系列に並べていきます。
気が遠くなる作業でした。
けれど。
読み進めるほど
違和感が増していきました。
本当に私たちの
責任なのだろうか。
私はさらに調べました。
契約条項を整理する。
メールと照合する。
チャット履歴を並べる。
修正指示を比較する。
深夜を過ぎた頃。
私はようやく一つの結論へ
辿り着きました。
責任は私たちにはありませんでした。
問題は丸山さん側にあったのです。
私は証拠をまとめました。
契約条項。
メール履歴。
チャット履歴。
時系列表。
すべて添付して送り返しました。
その直後でした。
丸山さんから大量の連絡が
届き始めました。
メール。
チャット。
電話。
説明。
弁解。
言い訳。
責任転嫁。
内容は少しずつ違うのに、
どれも同じことを
言っているように見えました。
私は最後に、
一枚のスタンプを送りました。
カタツムリのスタンプです。
『私には何を言っているのか
分かりません。』
数秒後。
連絡は止まりました。
私たちの会社に責任はない。
その事実だけが残りました。
その夜。
私はある約束を思い出しました。
昨日。
雨の中で出会った彼との食事です。
仕事を終えた私は、
待ち合わせの店へ向かいました。
焼けたお肉の香り。
柔らかな照明。
向かいには彼が座っています。
不思議でした。
まだ名前もよく知らないのに、
なぜか落ち着くのです。
私は今日あった出来事を
少しだけ話しました。
もちろん。
契約内容までは話しません。
ただ。
仕事で大変だったことだけを。
彼は最後まで
黙って聞いていました。
そして静かに言いました。
「人の話は、
状況によって変わりますからね。」
私は顔を上げました。
彼は続けます。
「だからまず、
残っているものを見た方がいいです。」
「残っているもの?」
「書類です。」
私は昨日聞いた言葉を思い出しました。
彼は少し笑いました。
「言った言わないより、
何が残っているかの方が大事ですよ。」
その言葉は、
不思議なくらい心に残りました。
食事を終えた帰り道。
スマートフォンが震えました。
表示された名前は。
丸山恒一。
私は少し迷いながら電話に出ました。
すると。
彼は小さな声で言いました。
「お願いがあります。」
私は立ち止まりました。
「何でしょうか。」
数秒の沈黙。
そして。
「明日、お会いできませんか。」
「どうしてですか?」
彼は周囲を気にするように
声を落としました。
「誰にも言わないと
約束してください。」
夜風が吹きました。
「私の会社と元請けとの契約書を……
見てほしいんです。」
私は息をのみました。
「社外秘です。」
「分かっています。」
彼は続けました。
「でも、もう私一人では
どうにもできません。」
その時の私はまだ知らない。
その契約書の向こう側に。
もっと大きな問題が
隠されていることを。
そして。
それが三つの会社の運命を変える
戦いの始まりになることを。
つづく
🎧 第1章・第5話
【連載ドラマ.ver バラード #1-5】言った、言わない。|私は全部、残していた。
▶︎ 本編音楽はこちら








댓글
댓글 쓰기