【第2話】黄金のコインの秘密|誰が正解を知っているのか
『明日の午前中までに、もう一度修正していただけますでしょうか。』黄金のコインの秘密
副題|カタツムリの言葉
第2話|誰が正解を知っているのか
期限は書かれていた。
しかし、何を直せばいいのかは書かれていなかった。
さらに深刻なのは、そのメールを送った丸山自身が、自分の押印した二千ページの契約書に記された提出期限が、当初の合意より二か月も早められていたことに、ようやく気づいたばかりだったということだ。
彩乃は、丸山に聞けと言った。
丸山は、彩乃に確認してほしいと言った。
誰も最終的な判断を下そうとしなかった。
それなのに、もし仕事が失敗したら、真っ先に責任を問われるのは誰だろう。
桜井美咲。
彼女はまだ、自分に迫りつつある危険の大きさを知らなかった。
正解を知らない人よりも恐ろしいのは、正解を決めるべき人が、何ひとつ決めようとしない瞬間だった。
三週間前。
火曜日、午前八時四十六分。
日本のある物流会社。
桜井美咲は出勤すると、すぐにパソコンを立ち上げた。
オフィスには、まだ空席が目立っていた。
廊下からは清掃用カートの音が聞こえ、窓際のデスクには朝の日差しが長く差し込んでいた。
いつもと変わらない朝だった。
しかし、美咲の視線は、パソコンの画面の一点に止まっていた。
昨夜、午後十時四十一分。
丸山恒一から届いたメールだった。
四度目の修正依頼。
『可能であれば、明日の午前中までに、もう一度修正していただけますでしょうか。』
美咲は、その一文をゆっくりと読み返した。
すでに何度も企画案を修正していた。
最初に渡された資料を整理するのに二日かかった。
第一稿を作成した。
修正依頼を受けて第二稿を送った。
再び修正依頼が届いた。
第三稿を作成した。
そして三度目の修正依頼に従い、必要な部分をさらに補っていた。
ところが昨夜、また修正してほしいというメールが届いたのだ。
美咲はメールを閉じ、業務記録を開いた。
企画案を送信した日付。
修正依頼を受けた日付。
修正した内容。
確認できていない事項。
すべて整理されていた。
彼女は昨夜作成し、下書き保存しておいた返信メールをもう一度確認した。
最終的に求めている事業の方向性。
具体的な修正箇所。
確定している業務範囲。
そして、実際の提出期限。
四つの質問だった。
美咲はしばらく考えた。
企画案をさらに修正すること自体は難しくなかった。
しかし、何を基準に修正すればいいのか分からなければ、同じことを繰り返すだけだった。
彼女はメモを印刷し、彩乃の席へ向かった。
神崎彩乃部長は、すでに出勤していた。
デスクの上には、役員会で使用する発表資料が広げられていた。
彩乃は片手で資料をめくりながら、もう片方の手でスマートフォンを確認していた。
「部長、少しよろしいでしょうか」
彩乃が顔を上げた。
「うん。どうしたの?」
「丸山さんから昨夜、追加の修正依頼がありました」
「そうなの?」
「ただ、今回も具体的にどこを修正すればいいのか、示されていません」
美咲は用意したメモを差し出した。
「これまでに依頼された内容は、ほとんど反映しています。そろそろ最終的にどの方向で進めるのか、確認する必要があると思います」
彩乃はメモにざっと目を通した。
「だったら、丸山さんに聞けばいいじゃない」
「すでに何度か確認していますが、明確な判断基準を示していただけていません」
「向こうの会社が求めている企画案なんだから、向こうで決めるべきでしょ」
「では、弊社内で判断すべき事項は何でしょうか」
彩乃は時計を見た。
「それも丸山さんと相談すればいいんじゃない?」
彼女は再び発表資料を手に取った。
「私、もうすぐ役員会だから。とりあえず、いい方向にまとめておいて」
美咲は手元のメモに視線を落とした。
また同じ言葉だった。
いい方向。
いい感じ。
全体的な完成度。
言葉は少しずつ違っていても、どれひとつとして判断基準にはならなかった。
「承知しました。取引先に改めて確認します」
美咲は自分の席に戻った。
そして丸山に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声がした。
「はい、丸山です」
「丸山さん、いつもお世話になっております。桜井です」
「ああ、桜井さん。昨夜は遅い時間にご連絡してしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です。ただ、修正内容について確認したいことがございます」
「はい、何でしょうか」
「これまで企画案の構成と内容を何度も見直してきました。今回は、最終的にどの部分を修正すべきなのか、具体的に教えていただけますでしょうか」
丸山はすぐには答えなかった。
彼はデスクの上に置かれた分厚い契約書とカレンダーを見つめていた。
前日に発見した提出期限が、頭から離れなかった。
麗奈が交渉した日付より、二か月も早められていた契約書。
その事実を知ってからも、自分が何を要求すべきなのか、明確に整理できずにいた。
「桜井さん」
「はい」
「全体的な方向性は、かなり良くなっています」
「ありがとうございます。では、丸山さんとしては、最終的にどの方向が適切だとお考えでしょうか」
「その点は……」
丸山は言葉を止めた。
「神崎部長は、何とおっしゃっていましたか?」
美咲のペン先が止まった。
「神崎からは、丸山さんに確認するよう言われています」
「ああ……そうですか」
短い沈黙が流れた。
美咲は静かに尋ねた。
「では、最終的に企画案の方向性を決定するのは、どなたでしょうか」
今回も、すぐには答えが返ってこなかった。
丸山は、自分が判断すべき問題があることを理解していた。
しかし、どこまで自分の権限で決められるのか、自信がなかった。
元請けに提出する事業計画書には、自分の会社だけでなく、複数の事業に関する条件が結びついていた。
目の前にある契約書さえ、十分に理解できていない状態だった。
結局、彼は言った。
「神崎部長に、もう一度ご確認いただけると助かります」
美咲は一瞬、目を閉じた。
「神崎は、丸山さんのご判断が必要だという認識です」
「そうですか……」
丸山は困ったように言葉を続けた。
「申し訳ありませんが、ひとまず今まで作成していただいた内容を、もう少し見直していただけませんでしょうか」
美咲は、それ以上同じ質問を繰り返さなかった。
「承知しました。ただし、最終判断が必要な事項については、別途整理しておきます」
「はい。よろしくお願いします」
通話が終わった。
美咲は受話器を置いた。
彩乃は丸山に聞けと言った。
丸山は彩乃に確認してほしいと言った。
そして結局、また修正しなければならないのは美咲だった。
誰も最終的な判断を下さなかった。
彼女は新しいメモを作成した。
『最終判断基準の確認依頼』
『社内承認が必要な事項の確認依頼』
『取引先による最終決定事項は未確定』
そして、彩乃に確認した内容と、丸山との電話で話した内容を、それぞれ分けて記録した。
誰が何を言ったのか。
どの質問に回答があったのか。
何がまだ決まっていないのか。
すべて記録した。
今回は、自分の記憶だけに頼らないことにした。
美咲は昨夜、下書き保存しておいたメールを再び開いた。
丸山への返信メールだった。
CCには彩乃を追加した。
これまでの修正内容は反映済みであるものの、最終判断基準と承認権限が確定していないことを記した。
また、昨夜依頼された午前中の期限までに最終修正版を確定するには、具体的な修正基準と決定事項について回答が必要であることも説明した。
美咲は文章を読み返した。
相手を責める表現はなかった。
確認できた事実と、まだ決まっていない事項だけが書かれていた。
彼女は送信ボタンを押した。
メールが送信された。
そして業務記録に一行追加した。
『火曜日午前。四度目の修正依頼に関する判断基準および提出期限の確認依頼を送信』
その下には、こう記した。
『最終修正方針未確定。回答待ち』
美咲はしばらくパソコンの画面を見つめた。
今回は、何も決まらないまま新しい修正版を送るのではなく、何が決まっていないのかを先に記録したのだ。
丸山は通話を終えると、しばらく電話を見つめていた。
彩乃が決めるべき問題だと思っていた部分を、美咲は自分に尋ねてきた。
しかし、自分も答えられなかった。
結局、丸山は彩乃に対し、物流事業企画案を早急に仕上げてほしいという短い業務連絡を残した。
だが、最終的な方向性についての答えは、やはり書けなかった。
美咲の業務記録には、またひとつ未決定事項が加わった。
* * *
午前九時四十分。
美咲は複合機で印刷物を受け取ろうとしていた。
廊下の向こうでは、役員会に出席する部長たちが会議室へ向かっていた。
彩乃も書類ファイルを抱え、廊下に出てきた。
そのとき、向こうからグレーのスーツを着た中年の男性が歩いてきた。
黒川征司。
物流会社の副社長だった。
美咲も、彩乃に同行して出席した複数の部門会議で議事録を作成する際、黒川副社長とは何度か顔を合わせていた。
彩乃は彼を見つけると、表情を明るくした。
周囲をよく確認することもなく、近づいていった。
「叔父さん、今日の役員会の資料、もう見ました?」
黒川は一瞬、足を止めた。
彼は周囲を見回し、声を低くした。
「彩乃」
「はい?」
「会社では叔父さんと呼ぶなって言っただろう」
彩乃は小さく笑った。
「あ、そうでしたね」
黒川は表情を引き締めた。
「誰かに聞かれたらどうするんだ?」
「周りに誰もいないと思ったんです」
「会社では副社長と呼びなさい」
「分かりました、副社長」
黒川は会議室へ向かって歩き出した。
彩乃もすぐに後を追った。
廊下には再び、静かな足音だけが残った。
しかし、複合機の前に立っていた美咲は、その場から動けなかった。
今、耳にした言葉が頭に残っていた。
『叔父さん?』
美咲は会議室のドアを見つめた。
神崎彩乃。
黒川征司。
名字が違っていたため、二人が親族だとは考えたこともなかった。
だが、彩乃は確かに叔父さんと呼んでいた。
黒川も、その呼び方を否定しなかった。
むしろ会社ではそう呼ぶなと注意したのだ。
美咲は印刷物を手に取った。
彩乃は部長だった。
黒川は会社の副社長だった。
これまで美咲は、彩乃が役員会に頻繁に出席し、経営陣から信頼されているのは、彼女のプレゼンテーション能力によるものだと思っていた。
もちろん、それだけですべての状況を説明できるわけではなかった。
しかし今、美咲は二人の関係を違う目で見るようになっていた。
彩乃の指示で始まった仕事。
確定していない事業範囲。
誰も決めようとしない修正基準。
もし問題が起きたら、彩乃の責任を誰が問えるのだろう。
美咲は、簡単には楽観できなかった。
確実に分かったのは、二人が親族だという事実だけだった。
それだけで、不当なことが行われていると決めつけることはできなかった。
ただ、自分の仕事は、これまで以上に正確に管理する必要がある。
美咲は席へ戻り、業務記録をもう一度開いた。
仕事を引き継いだ日付。
資料を確認した日付。
企画案を送信した日付。
修正依頼を受けた日付。
そして、まだ決まっていない事項。
彼女は内容を確認し、保存した。
どんな問題が起きても、自分が実際に担当した仕事については、正確に説明できなければならなかった。
* * *
同じ日。
タイの大型ホテル。
現地時間、午前十時十五分。
西園寺麗奈は午前の会議を終え、廊下の奥へ歩いていった。
午後には追加の現地視察が予定されていた。
彼女は、わずかに確保できた時間を確認すると、携帯電話を取り出した。
丸山恒一。
呼び出し音が鳴った。
日本では、正午を少し過ぎた時刻だった。
「はい、西園寺部長」
「丸山さん。昨日、確認するようにお願いした契約書の件ですが」
「はい」
「事業計画書の提出期限は確認しましたか」
「確認しました」
「いつまでですか」
丸山は、押印済みの最終契約書に記された日付を読み上げた。
麗奈の表情がこわばった。
「もう一度、言ってください」
丸山は日付を繰り返した。
麗奈はしばらく言葉を失った。
元請けとの最終交渉で合意した提出期限が、頭に浮かんだ。
二か月。
丸山が読み上げた日付は、自分が交渉した日程より二か月も早かった。
「丸山さん」
「はい」
「どうして二か月も早まっているんですか」
「私にも理由が分かりません」
「最終契約書に押印するとき、変更内容は確認しなかったんですか」
「それが……」
丸山は言葉を詰まらせた。
麗奈は急かさなかった。
彼が何を説明するのか、黙って待った。
「元請けから、会社の実印を持って契約書に押印しに来るよう連絡がありました」
「続けてください」
「社内で必要な押印承認を受けてから、元請けを訪問しました。西園寺部長がすでに交渉を終えられた契約書だと思っていたんです」
「それで?」
丸山は一度、息を整えた。
あの日の光景がよみがえった。
日本の元請け開発会社。
契約締結のために用意された会議室だった。
丸山は会社の実印と必要な書類を持って訪問していた。
契約への押印に必要な社内手続きは、すでに終えていた。
しかし、最終契約書のすべての内容を自分で照合したわけではなかった。
元請け側では、女性チームリーダーが彼を迎えた。
「丸山さん、お待ちしておりました」
女性チームリーダーは丁寧に挨拶した。
テーブルの上には、分厚い契約書が何冊も置かれていた。
約二千ページ。
丸山は、それが麗奈の交渉した最終合意版だと思っていた。
女性チームリーダーは席に着くと、にこやかに言った。
「最終確認の際に、少し誤字が見つかりましたので修正しておきました」
「ああ、そうですか」
「はい。一部の文言も、読みやすいように整えています」
彼女は契約書を丸山の前へ差し出した。
「ご確認のうえ、ご押印をお願いいたします」
丸山は分厚い契約書を見つめた。
二千ページに及ぶ分量だった。
何冊にも分かれており、別添資料も多かった。
その場ですべてを読もうとすれば、相当な時間がかかる。
しかし、麗奈がすでに交渉を終えた契約だった。
元請けの担当者も、誤字と一部の文言を修正しただけだと説明していた。
丸山は、重要な条件は変わっていないはずだと思った。
契約書の最初の数ページだけをめくった。
提出期限や責任条項がどこにあるのかさえ、きちんと確認しなかった。
そして担当者の案内に従い、所定の署名・押印欄と、製本された契約書の必要な契印箇所に会社の実印を押していった。
元請け側の押印手続きも進められた。
分厚い書類ファイルが、一冊ずつ脇へ移されていった。
最後の押印が終わった。
女性チームリーダーは契約書を確認した。
「お疲れさまでした」
丸山は、重要な仕事を無事に終えたと思っていた。
そのときは知らなかった。
自分がきちんと読まなかった契約書の中に、どのような変更が加えられていたのかを。
現在。
タイの麗奈は、丸山の説明を聞いていた。
「つまり……」
彼女はゆっくりと尋ねた。
「元請けの担当者から誤字を修正したと説明され、それを信じて契約書に押印したということですか」
「……はい」
「契約書は二千ページでしたね」
「はい」
「全部読みましたか」
丸山は答えられなかった。
麗奈がもう一度尋ねた。
「丸山さん。二千ページの契約書を、すべて確認したんですか」
「……いいえ」
短い沈黙が流れた。
「主要な部分だけ確認しました」
麗奈は窓の外を見た。
タイの強い日差しが、ホテルの廊下を照らしていた。
彼女はゆっくりと息を吐いた。
「なぜ、契約書を最後まで確認しなかったんですか」
丸山は何も言えなかった。
「交渉したのは私です。でも、押印済みの最終契約書は改めて確認しなければなりません。特に、相手が修正したと言っている契約書なら、なおさらです」
「申し訳ありません」
「謝るのは後にしてください」
麗奈の声が厳しくなった。
「今は、何が変わったのかを確認することが先です」
彼女は少し考えた。
二千ページ。
タイでは、現地会議と投資案件の検討が続いていた。
今すぐ日本へ戻り、契約書を最初から最後まで読み直す時間を確保するのは難しかった。
だからといって、何もしないわけにはいかなかった。
麗奈は丸山に言った。
「丸山さん、私の執務室へ行ってください」
「はい?」
「私のデスクの右側の引き出しに、元請けとの契約交渉で使っていた手帳があります」
丸山はペンを手に取った。
「元請けとの交渉記録をつけていた手帳ですね」
「そうです。日本のオフィスに保管してある手帳です」
麗奈は続けた。
「執務室の管理担当者には、私からの指示だと伝えてください。こちらからも確認の連絡を入れます。業務に必要な記録だけ確認してください」
「承知しました」
「その手帳には、元請けの担当者と交渉した日付や主要な条件を記録してあります」
「はい」
「手帳を探して、実際に押印された契約書と照らし合わせてください」
丸山はメモを取った。
麗奈は続けた。
「特に、事業計画書の提出期限から確認してください」
「分かりました」
「それから、二千ページの契約書をすべて読んでください」
「全部、ですか?」
「はい。本文だけでなく、別添資料と参照条項まで確認してください」
「承知しました」
「手帳に記録した交渉内容と、最終契約書がどう違っているのか、整理してください」
麗奈は確認すべき事項を、一つずつ説明した。
提出期限。
契約上の承認手続き。
責任範囲。
損害賠償。
「単なる表現の修正と、実際の権利や義務に影響する変更を分けてください」
「はい」
「関連条項が別のページや別添資料を参照している場合は、その参照先に記載された内容まで確認してください」
丸山のメモが長くなっていった。
「確認できた事実と、まだ確認できていない事項も区別してください」
「分かりました」
麗奈は一度、言葉を止めた。
「それから、自分だけでは判断できない法律上の問題には印をつけておいてください。必要なら社内の法務担当者と一緒に確認してください」
「はい、部長」
「検討結果は比較表にまとめて、できるだけ早く報告してください」
「承知しました」
「丸山さん」
「はい」
「今度は、ご自身で確認してください」
丸山は背筋を伸ばした。
「……はい。必ず確認します」

通話が終わった。
麗奈は携帯電話を下ろした。
彼女の鞄には、タイの現地事業を検討するために使用している、別の業務手帳が入っていた。
日本の執務室に残してきた元請けとの契約交渉用の手帳とは、別のものだった。
麗奈はタイで使っている手帳を取り出し、午後の予定と現地での検討事項を確認した。
日本の元請けとの契約問題。
タイでの大規模な共同開発事業。
どちらも重要だった。
しかし、今、彼女が直接動ける場所はタイだけだった。
麗奈は時計を見た。
そして、次の会議室へ向かった。
* * *
日本。
丸山の会社のオフィス。
丸山は麗奈との通話を終えると、すぐに彼女の執務室へ向かった。
麗奈はすでに、執務室の管理担当者へ必要な指示を伝えていた。
丸山は担当者の確認を受け、引き出しに保管されていた交渉手帳を取り出した。
右側の引き出しの奥。
何冊かの手帳の中に、元請け開発会社との契約交渉の記録をまとめた手帳があった。
丸山は表紙を開いた。
麗奈の文字が現れた。
日付。
交渉相手。
修正を要求した事項。
元請けが受け入れた条件。
追加確認事項。
短く、正確な文章だった。
丸山は手帳を持って自分の席に戻った。
そして二千ページの契約書と麗奈の交渉手帳を、デスクの上に置いた。
押印済みの最終契約書。
麗奈の交渉手帳。
以前の検討資料。
彼は書類を並べて広げた。
そして新しい文書を開いた。
『契約条件比較表』
一つ目の項目。
交渉時に合意した条件。
二つ目の項目。
押印済みの最終契約書に記載された内容。
三つ目の項目。
差異が生じているページと条項。
四つ目の項目。
事業への影響。
五つ目の項目。
追加確認が必要な事項。
丸山は、まず事業計画書の提出期限を比較した。
麗奈の手帳には、交渉時に合意した日付が記されていた。
彼は最終契約書を開いた。
そして該当条項を探した。
日付は明らかに違っていた。
二か月。
押印済みの契約書では、提出期限が二か月も早まっていた。
「……どうして、こんなことに」
丸山はしばらく二つの書類を見つめた。
麗奈が交渉の過程で残していた記録は明確だった。
しかし、最終契約書には別の日付が書かれていた。
彼は契約書の該当条項をもう一度読んだ。
問題は日付ひとつでは終わらなかった。
提出期限を定めた条項の下には、別の条項番号が記されていた。
その条項を探すと、今度は別添資料を参照するよう書かれていた。
丸山は別添資料の目次を開いた。
書類の束が、急に重く感じられた。
「……これを全部、つなげて確認しなければならないのか」
彼は小さくつぶやいた。
二千ページ。
これまでは分量が多いという理由で、必要だと思った部分だけを読んできた。
しかし、もうそんなことはできなかった。
彼は契約書のページをめくり始めた。
読みながら、確認済みの箇所に印をつけた。
交渉手帳と異なる部分は別に記録した。
自分では判断できない事項にも印をつけた。
確認した事実と、まだ検討できていない内容を分けた。
以前の彼なら、麗奈が直接解決してくれるまで待っていたかもしれない。
自分が理解できない部分は、誰かに判断してほしいと思っていただろう。
しかし今、麗奈はタイにいた。
契約書に押印したのは、自分だった。
丸山は再びペンを握った。
そして最初の比較表を作成し始めた。
まだ全体を理解できたわけではなかった。
だが、少なくとも何を確認すべきなのかは分かってきた。
しばらくして、彼は検討の進捗を麗奈に報告した。
『元請けとの契約交渉手帳を確認しました。』
『事業計画書の提出期限が、押印済みの最終契約書では二か月早められていることを確認しました。』
『現在、ほかの条項および別添資料との照合作業を進めています。』
『未確認の部分については、別途記録いたします。』
タイの麗奈は報告を確認した。
そして簡潔な返信を送った。
『確認しました。』
『提出期限以外の変更事項についても検討してください。』
『確認できていない部分を推測で埋めないでください。』
『差異のある条項は、該当ページとあわせて報告してください。』
丸山は返信を読んだ。
そして再び契約書を開いた。
* * *
タイ。
元請け開発会社の現地オフィス。
午後。
そこにいたのは、麗奈のタイ訪問に同行し、共同開発事業を担当する元請け側の実務責任者たちだった。
現地視察。
事業性の検討。
投資資料の提供。
会議日程の調整。
元請けのチームリーダーたちは、麗奈が確認すべき資料や現地関係者の予定を管理していた。
麗奈がほかのチームリーダーたちの担当する会議に出席している間、現地の日程と資料を管理する女性チームリーダーの一人は、日本の本社へ定期的に進捗を報告していた。
その日の午後も、本社との定例オンライン会議が始まった。
画面に映ったのは、日本本社の原田修司副社長だった。
彼はデスクの上に置かれた現地事業の報告書を確認していた。
「西園寺部長の現地での検討は、順調に進んでいますか」
チームリーダーが答えた。
「はい、副社長。本日午前までに、主要な検討会議を終えております」
「午後の予定は?」
「現地視察と追加の投資検討会議を予定しております」
原田は日程表をめくった。
「検討資料は十分にそろっていますか」
「現在ご依頼いただいている資料は、ほぼすべてお渡ししております」
「日本側の業務が原因で、日程に遅れが出ている部分はありませんか」
チームリーダーは少し考えた。
「今のところ、日程の遅れはありません。ただ、西園寺部長は日本との業務連絡の時間を確保しようとされています」
「そうですか」
「はい。追加資料も事前に送ってほしいとのご要望がありました」
原田はうなずいた。
麗奈が電話で何を話していたのか、その内容まで報告を受けていたわけではなかった。
しかし、彼女が日本の業務を引き続き管理していることは分かった。
原田はデスクの端に置かれた日程表を見た。
元請けでの会議まで、約三週間。
契約上の事業計画書提出期限は、それよりも前に設定されていた。
彼は日付を指でなぞった。
そして静かに言った。
「タイ事業の検討範囲を、もう一度確認してください」
「どの部分でしょうか」
「現地開発事業の投資構造全体です」
原田は関連資料を開いた。
「施設開発計画、投資回収条件、運営費用、現地協力会社との契約条件まで、詳しく検討してもらってください」
チームリーダーはメモを取った。
原田は続けた。
「残り三週間で検討する資料を、六週間分に増やしてください」
チームリーダーが顔を上げた。
「六週間分を、三週間以内にということでしょうか」
「はい」
原田は平然と答えた。
「事業規模が大きいのですから、確認すべき事項も多いでしょう」
チームリーダーは慎重に言った。
「現在の予定も、かなり詰まっております」
「必要な検討であれば、進めるべきでしょう」
原田は落ち着いた声で続けた。
「現地視察と追加会議を組み込んでください。投資リスクの分析と運営計画についても、より具体的に検討してもらってください」
「承知しました」
「単に書類の量を増やすだけでは困ります。実際の事業判断に必要な資料を用意してください」
「はい、副社長」
「検討の進捗については、定期的に報告してください」
「承知しました」
オンライン会議が終了した。
チームリーダーは、原田修司副社長から指示された内容を改めて確認した。
追加された業務は、非常に多かった。
しかし、本社からの正式な検討指示だった。
チームリーダーは、関連業務を担当するほかのチームリーダーたちに追加検討事項を伝えた。
現場ごとの事業性分析。
施設運営費。
投資金の回収計画。
現地協力会社との契約条件。
資金調達リスク。
新しい資料が、次々とリストに追加されていった。
会議の予定も増えた。
現地関係者が出席する会議が追加された。
新しい現地視察の日程も組まれた。
書類も会議も、すべてタイの開発事業に関係するものだった。
問題は、そのすべてを残り三週間で終えなければならないことだった。
しばらくして、麗奈のもとに修正された日程表が届いた。
彼女は一ページ目を読み、次のページをめくった。
そして、もう一度最初のページに戻った。
「この日程は、誰が確定したのですか」
元請けのチームリーダーが答えた。
「本社と協議した検討日程です」
「現地視察が三件も追加されていますね」
「現地担当者から直接ご説明する必要があるとのことです」
麗奈は午後遅くに入っている追加の検討会議を指した。
「この会議は、どういう内容ですか」
「事業費と投資回収計画を、改めて検討する会議です」
「その資料は昨日も受け取りましたが」
「今回は、現場ごとに分けた追加資料です」
麗奈は黙って日程表を置いた。
おかしい。
資料はすべて事業に関係していた。
確認する価値もあった。
しかし、予定が増える速度があまりにも速かった。
ひとつ検討すれば、新しい資料が追加された。
ひとつの現場を確認すれば、別の現地視察が予定された。
日本の契約問題を確認する時間を確保しようとするたびに、タイでの予定がさらに詰まっていった。
麗奈はチームリーダーを見た。
「これらの資料は、すべて同じ優先順位で検討する必要がありますか」
「本社からは、できる限り早く検討するよう求められております」
「それでしたら、重要度に応じて順序を組み直します」
麗奈はペンを握った。
「事業全体の投資判断に直接影響する事項から確認します」
彼女は日程表を指した。
「説明が重複する会議については、資料の確認だけで済ませられないか、検討してください」
チームリーダーは少し困った表情を浮かべた。
「一部の会議は、現地関係者の出席がすでに確定しております」
「でしたら、その会議は予定どおり行ってください。その代わり、必要な資料を事前に送ってください」
麗奈は続けた。
「現場で初めて資料を読む時間を減らさなければなりません」
「承知しました」
麗奈は日程表に印をつけ始めた。
必ず出席すべき会議。
事前に確認する資料。
追加説明が必要な事項。
後から確認できる項目。
彼女は可能な範囲で日程を組み直した。
しかし、日本の業務に使う時間を確保することは、簡単ではなかった。
元請け側は、タイの共同開発事業の条件を検討する必要があるとして、麗奈にいくつもの重要な会議への出席を求めていた。
丸山の会社が保有する現地不動産を活用する事業だった。
規模も大きかった。
簡単に中断できる提案ではなかった。
麗奈は状況を分析した。
誰かが意図的に、自分を忙しくさせているのだろうか。
それとも、大規模な事業だからこそ、自然に検討事項が増えているのだろうか。
まだ確信は持てなかった。
しかし、ひとつだけは明らかだった。
日本へ戻り、契約書を自分で確認するための時間が、少しずつ失われていた。
彼女は携帯電話を確認した。
丸山から新しい進捗報告が届いていた。
『契約書全体の確認を進めています。』
『提出期限に関する条項と参照条項を優先して確認しております。』
麗奈はメッセージを読んだ。
まだすべての事実は分かっていなかった。
しかし、日本の契約問題を放置するわけにはいかなかった。
彼女は返信を作成した。
『確認できた内容から、引き続き報告してください。』
『判断が難しい事項は、該当ページを記録しておいてください。』
『必要な資料があれば、すぐに知らせてください。』
メッセージを送信すると、会議室のドアが開いた。
「西園寺部長、次の会議が始まります」
麗奈は携帯電話を置いた。
「今、参ります」
彼女は資料をまとめ、席を立った。
廊下の奥には、また別の会議室があった。
そこでも、新しい書類が彼女を待っていた。
* * *
その夜。
日本。
桜井美咲のマンション。
夜も遅い時間だった。
玄関のドアが開くと、犬のチェリーが顔を上げた。
美咲の姿を見つけると、チェリーは立ち上がって尻尾を振った。
「チェリー、ただいま」
美咲は靴を脱ぎながら、小さく笑った。
チェリーが近づき、彼女の脚に体を寄せた。
「今日も待っててくれたの?」
チェリーは返事の代わりに、さらに大きく尻尾を振った。
リビングの奥では、猫のヨジョンイがソファに座っていた。
美咲が入ってくる様子を眺めていたヨジョンイは、ゆっくりと伸びをした。
「ヨジョンイも、ただいま」
美咲は鞄を置いた。
アメリカに住む実の姉から預かっている二匹は、今では彼女の日常に欠かせない、家族のような存在になっていた。
仕事を終えて帰ってきたとき、誰かが待っていてくれる。
それは思っていた以上に、大きな慰めだった。
美咲はチェリーの頭を撫で、ヨジョンイにも声をかけた。
そして手を洗い、リビングへ戻ってきた。
ソファの前の低いテーブルには、小さな花瓶が置かれていた。
数日前に買ってきた花だった。
彼女は花瓶の水を替え、テーブルの端に置いた。
「今日は本当に長い一日だったな」
美咲はソファに座った。
昼間の出来事が頭に浮かんだ。
彩乃に尋ねた。
丸山にも尋ねた。
しかし、どちらからも明確な答えは得られなかった。
そして、朝、廊下で偶然耳にした会話も思い出した。
『会社では叔父さんと呼ぶなって言っただろう』
彩乃と黒川副社長。
二人が親族だと知ってから、少し気持ちが重くなっていた。
もちろん、親戚だからという理由だけで、その関係が間違っているとは思わなかった。
しかし、直属の上司が社内で大きな影響力を持つ副社長の親族なら、問題が起きたときに責任の所在を確認することも、簡単ではないかもしれなかった。
美咲は首を振った。
今、自分にできることは明確だった。
確認すべきことは確認し、実際に行った仕事は記録として残すこと。
彼女はスマートフォンを置いた。
今日くらいは、もう考えないことにした。
チェリーがソファの下に横になった。
ヨジョンイは彼女のそばに近づき、体を丸めた。
美咲は猫の背中をゆっくりと撫でた。
「あなたたちはいいよね」
ヨジョンイは目を細めた。
「難しい企画案も作らなくていいし」
美咲は小さく笑った。
チェリーは何を言われているのか分からない様子で、首を傾げた。
美咲はソファの背にもたれた。
少しだけ目を閉じた。
チェリーの静かな寝息が聞こえた。
ヨジョンイが体を動かす小さな音もした。
部屋は暖かかった。
そして、静かだった。
美咲はいつの間にか眠りに落ちていた。
その瞬間だった。
ゴロゴロゴロッ!
巨大な雷鳴が空を揺るがした。
美咲は目を開けた。
しかし、目の前にリビングはなかった。
果てしなく広がる雲の上。
黄金の鎧をまとった天上界の兵士たちが、巨大な陣形を組んでいた。
美咲は翼を持つ白いユニコーンの背に乗っていた。
黄金の鎧と赤いマント。
右手には、かすかな青い光が流れていた。
遠くの黒い雲の中から、魔界の軍勢が押し寄せてきた。
天上界の兵士たちが盾を掲げた。
黄金の槍が一斉に前方へ向けられた。
「軍団長様!」
誰かが叫んだ。
美咲は振り返った。
天上界の兵士たちが、彼女の命令を待っていた。
しかし、美咲には何をすればよいのか分からなかった。
そのとき、黒い雲の間から魔界の軍勢が一斉に突撃してきた。
巨大な翼を持つ兵士たちが、空を横切った。
天上界の兵士たちも迎え撃った。
黄金の槍と黒い武器が激しくぶつかり合った。
空全体が戦場へと変わった。
美咲の右手から青い光が噴き上がった。
彼女は自分でも分からないまま、腕を前方へ突き出した。
ゴロゴロゴロッ!
巨大な青い稲妻が、魔界軍の先陣を薙ぎ払った。
黒い鎧をまとった兵士たちが、まるで木の葉のように次々と倒れていった。
散り散りになっていた天上界の兵士たちが、再び前進した。
「軍団長様!」
黄金の軍勢が歓声を上げながら、敵陣へ押し寄せた。
そのとき、黒い雲の向こうから巨大な影が姿を現した。
魔界の軍団長。
赤みを帯びた顔。
頭から突き出た角。
顔の基本的な形は、人間によく似ていた。
しかし、黒い雲と赤い光が入り混じり、その顔をはっきりと見分けることはできなかった。
美咲にとっては、初めて見る顔だった。
魔界の軍団長が右手を掲げた。
その周囲に赤い光が集まり始めた。
魔界の軍勢が一斉に陣形を変えた。
そして、燃え盛る塊が空を切り裂いて飛んできた。
赤い溶岩の火球だった。
ドオオオン!
最初の溶岩の火球が、美咲に向かって飛んできた。
美咲の指先から青い稲妻が弾けた。
バチバチッ!
稲妻が溶岩の火球に激突した。
巨大な爆発が起きた。
炎が四方へ飛び散った。
しかし、攻撃は止まらなかった。
二つ目。
三つ目。
無数の溶岩の火球が、天上界の軍勢に向かって降り注いだ。
黄金の兵士たちが盾を掲げた。
翼を持つ白いユニコーンが高く舞い上がった。
美咲の赤いマントが、激しい風にはためいた。
そのそばでは、翼を持つ巨大な虎が魔界軍の攻撃を防ぎながら、鋭く咆哮していた。
グオオオッ!
魔界の軍団長が再び手を掲げた。
今度は、さらに巨大な溶岩の火球が現れた。
赤く燃え盛る火球が空を埋め尽くした。
美咲はその光景を見つめた。
怖かった。
それなのに、不思議と右手をどう動かせばよいのか、分かっているような気がした。
彼女は腕を大きく振り上げた。
指先の青い光が、さらに強くなった。
そして、一気に振り下ろした。
ゴロゴロゴロッ!
巨大な稲妻が空を横切った。
無数の溶岩の火球が、一斉に爆発した。
炎の向こうへ、青い稲妻がさらに伸びていった。
魔界軍の陣形が崩れた。
兵士たちが四方へ散っていった。
天上界の軍勢の歓声が、さらに大きくなった。
黄金の兵士たちは、崩れた魔界軍へ向かって前進した。
そのとき、美咲の視線が黒い雲の中で止まった。
赤い顔をした魔界の軍団長だった。
彼は再び手を掲げようとしていた。
美咲は自分でも分からないまま、右手を伸ばした。
バチッ!
指先から、まばゆい青い稲妻がほとばしった。
ドオオオン!
稲妻が魔界の軍団長を正面から直撃した。

巨大な爆発とともに、赤い光が飛び散った。
魔界の軍団長の体が後方へ押し戻された。
彼を守っていた兵士たちが、慌てて集まってきた。
魔界の軍団長は一瞬、よろめいた。
そして背後の黒い雲へと退き始めた。
彼の退却を確認した魔界の軍勢も、後方へ押し戻されていった。
天上界の兵士たちが、勝利の歓声を上げた。
「軍団長様!」
「魔界の軍団長が退却します!」
美咲は遠ざかっていく赤い顔を見つめた。
もう少し、はっきり見てみたかった。
あの顔は、誰なのだろう。
なぜ自分に向かって、あんな攻撃をしてきたのだろう。
しかし、黒い雲が再び彼の顔を覆った。
美咲は結局、その顔をはっきりと確かめることができなかった。
その瞬間。
ガシャン!
何かが割れる音がした。
「きゃっ!」
美咲は目を開けた。
* * *
目の前には、見慣れたリビングがあった。
黄金の鎧はなかった。
白いユニコーンもいなかった。
魔界の軍勢も消えていた。
心臓が激しく鳴っていた。
息が荒くなっていた。
だが、今聞こえた音は、夢の中の雷鳴とは違っていた。
確かに、リビングから聞こえた音だった。
美咲は振り返った。
「……え?」
ソファの前のテーブルの下に、何かが散らばっていた。
割れた花瓶だった。
床には花と水が散乱していた。
花瓶の破片が、照明の下できらきらと光っていた。
そして、そのそばにチェリーが立っていた。

チェリーは体を低くしたまま、美咲を見つめていた。
少し前にソファのそばで立ち上がり、体の向きを変えたときに、テーブルの端に置いてあった花瓶に触れてしまったようだった。
「チェリー?」
美咲が近づくと、チェリーは尻尾を下げた。
いつものように、うれしそうに駆け寄ってこなかった。
ただ、美咲の様子をうかがっていた。
美咲は驚いた気持ちを落ち着かせた。
そして、まずチェリーの足元を見た。
「ちょっと待って。動かないで」
彼女はチェリーが割れた破片を踏まないよう、慎重に近づいた。
「大丈夫。こっちにおいで」
チェリーはゆっくりと美咲に近づいた。
美咲はチェリーを安全な場所へ移動させ、足の裏から確認した。
前足。
後ろ足。
指の間。
けがをした様子はなかった。
そこでようやく、美咲は安心して息を吐いた。
「よかった」
チェリーが美咲の脚に頭を寄せた。
美咲は笑って、その頭を撫でた。
「びっくりしたね」
チェリーは返事をする代わりに、じっと立っていた。
「大丈夫。けがしてなければ、それでいいよ」
そのとき、ソファの上から小さな鳴き声がした。
「ニャア」
ヨジョンイが美咲を見つめていた。
猫も突然の音に驚いたようだった。
美咲はヨジョンイにも近づいた。
「ヨジョンイもびっくりした?」
ヨジョンイはまばたきをした。
美咲は二匹が割れた破片に近づかないようにしてから、掃除道具を持ってきた。
床に散らばった花を片づけた。
水を拭き取った。
花瓶の大きな破片を慎重に集めた。
小さな破片も残らないよう、床を何度も確認した。
それでも、先ほどの夢が何度も頭に浮かんできた。
赤い顔。
頭の角。
人間に似た顔。
そして、巨大な魔界の軍勢を指揮していた姿。
美咲は床を拭いていた手を、ふと止めた。
「……本当に変だな」
今回は、自分が魔界の軍勢を攻撃した。
青い稲妻を放つと、無数の兵士たちが倒れた。
魔界の軍団長が放った火球も、稲妻で防いだ。
最後には、魔界の軍団長まで退却させた。
それなのに、自分がどうやってそんなことをしたのか、まったく分からなかった。
美咲は自分の右手を見下ろした。
つい先ほどまで、青い稲妻が指先を包んでいた感覚が残っているような気がした。
しかし、その手は普通だった。
彼女は指をゆっくりと動かした。
何も起こらなかった。
「夢なのに……」
美咲は小さくつぶやいた。
「どうしてこんなに、はっきり覚えてるんだろう」
チェリーが近づき、彼女の膝に顎をのせた。
美咲はチェリーを見つめた。
夢の中で、自分を乗せて空を飛んでいた白いユニコーンが思い浮かんだ。
やさしい眼差し。
白いたてがみ。
巨大な翼。
美咲はしばらくチェリーの顔を見つめた。
そして小さく笑った。
「まさか、あなたのせいじゃないよね?」
チェリーは尻尾を振った。
美咲は首を振った。
「私、本当に疲れてるのかも」
そのとき、ヨジョンイがソファから降り、慎重に歩いてきた。
美咲はヨジョンイを抱き上げた。
猫の温かい体が腕に触れた。
夢の中で翼を広げていた巨大な虎が、一瞬、頭に浮かんだ。
だが、今、腕の中にいるヨジョンイは、ごく普通の猫だった。
小さな足。
やわらかな毛。
静かな寝息。
美咲はヨジョンイの背中を撫でた。
「二匹とも、今日は気をつけてね」
彼女は割れた破片が完全に片づいているか、もう一度確認した。
そして掃除道具をしまった。
リビングは再び静かになった。
チェリーはソファの下で横になった。
ヨジョンイは美咲の隣に座った。
美咲は水を一杯飲み、窓の外を眺めた。
しばらくの間、夢の中の赤い顔が頭から離れなかった。
確かに、初めて見る顔だった。
それなのに、なぜか妙に気になった。
彼女は窓の外の暗い夜空を見つめた。
遠くで車が通り過ぎる音がした。
見慣れた街の夜だった。
美咲はゆっくりと息を吐いた。
「本当に変な夢だったな」
* * *
同じ夜。
タイ。
麗奈はホテルの客室で、翌日確認しなければならない資料を整理していた。
元請け側から渡された日程表には、追加会議と現地視察がびっしりと書き込まれていた。
彼女は資料を一枚めくった。
次のページにも、確認すべき内容があった。
新しい投資リスク分析表が現れた。
麗奈はしばらくペンを置いた。
そして、日本から届いた丸山の進捗報告を確認した。
契約書全体の検討を継続中。
交渉手帳との照合を継続中。
提出期限の差異を確認済み。
その他の変更事項は未確定。
まだ確認しなければならないことが多かった。
麗奈は報告書を保存し、再びタイの事業資料を開いた。
彼女の前では、二つの重要な仕事が同時に進んでいた。
タイでの大規模開発事業。
日本での元請けとの契約問題。
しかし、時間は十分ではなかった。
一方、日本では丸山が今も契約書と格闘していた。
彼のデスクには麗奈の交渉手帳が置かれていた。
二千ページの契約書も、何冊にも分けて広げられていた。
丸山は手帳に記された日付と、契約書の文章を照らし合わせた。
ひとつの条項を確認しては、次の条項へ進んだ。
かと思えば、また前のページに戻った。
契約書のいくつもの条項が、互いにつながっていたからだ。
彼は、自分が何を知らなかったのかを、少しずつ理解し始めていた。
そして、もうひとつの場所。
元請け開発会社の日本本社。
原田はタイから届いた業務進捗報告書を確認していた。
麗奈に新たに割り当てられた検討資料と会議日程が整理されていた。
原田は日程表に目を通した。
そして、次の業務報告日を記した。
表情は変わらなかった。
日本での事業計画書の提出期限は、一日ずつ近づいていた。
しかし、麗奈のタイでの予定には、ほとんど空きがなかった。
丸山は契約書の中に、危機を切り抜ける道を探していた。
麗奈は与えられた時間の中で、問題を解決しようと動いていた。
原田が報告を受けていたのは、タイ現地での業務の進捗状況だった。
そして美咲は、そのすべてを知らなかった。
彼女が知っているのは、自分に引き継がれた仕事と、それまでに交わした記録だけだった。
* * *
その夜。
美咲は眠る前に、仕事用のノートパソコンをもう一度開いた。
丸山から届いた四度の修正依頼。
そのたびに自分が修正した内容。
まだ回答を得られていない事項。
彼女はすべての記録を日付順に整理した。
そして、新しい文書を作り始めた。
『事業計画書・事業分野別修正方針の選択および承認依頼書』
事業分野をそれぞれ区分し、未確定の項目ごとに、四つの具体的な選択肢を用意した。
① 既存計画を維持する。
② 事業範囲を縮小する。
③ 事業範囲を拡大する。
④ 代替事業案を採用する。
それぞれの選択肢には、実際の修正例と想定される影響を添えた。
今回は、「いい感じに」という返事で終わらないようにした。
希望する方向にチェックを入れるだけで、次の作業へ進められるようにしたのだ。
そして最後に、二つの項目を追加した。
『事業分野ごとの選択および承認回答期限』
『選択された方針に基づく企画案の完成希望日』
美咲はメールを作成した。
宛先。
丸山恒一。
CC。
神崎彩乃。
丸山には、事業分野ごとの修正方針の選択を求めた。
彩乃には、自社の業務範囲と社内承認事項の確認を求めた。
そして最後の一文を入力した。
『各事業分野の修正方針および承認事項が確定しなければ、最終的な作業日程を決定することができません。ご回答のない項目については未確定事項として記録し、該当項目のご回答日および承認日に応じて、完成予定日を調整いたします。』
美咲は内容をもう一度確認した。
四度の修正依頼。
四度の曖昧な指示。
しかし、今回は違っていた。
何を選ぶべきなのか。
誰が確認すべきなのか。
いつまでに完成させるべきなのか。
すべて文書に記されていた。
美咲は送信ボタンを押した。
カチッ。
『送信完了』
彼女はしばらく画面を見つめた。
もう、選ぶべき人は自分ではなかった。
丸山と彩乃だった。
選択すれば、企画案は前に進む。
選択しなければ、何が決まっていないのかが記録として残る。
美咲は静かにノートパソコンを閉じた。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
自分が送信したそのメールが、のちに起こる大きな責任をめぐる争いで、重要な証拠になることを。
そして翌日。
二人は初めて、逃げることのできない問いと向き合うことになる。
四つのうち、どれを選ぶのか。
それとも、今回も何ひとつ決めないのか。
(第3話へつづく)


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