(#1-4) 傘の中の、小さな勇気 | カタツムリたちの処世術
【カタツムリの言葉 #1-4】
「突然の雨と、一本の傘」
今日も一日、
お疲れ様でした。
私は桜井美咲。
昨日、
初めて取引先の丸山さんに
勇気を出して聞いてみました。
「“いい感じ”とは、
具体的に
どういうことでしょうか。」
ずっと聞けなかった
質問です。
でも、
返ってきた答えは
想像していたものでは
ありませんでした。
「私もよく
分からないんです。」
私は思わず
言葉を失いました。
分からない。
そう言ったのです。
あれだけ
修正を繰り返して。
あれだけ
やり直して。
あれだけ
悩んでいたのに。
その基準を
決めているはずの人が、
分からないと言ったのです。
私はすぐに
上司の神崎彩乃へ
報告しました。
「丸山さんにも
確認しましたが、
具体的な方向性は
分からないそうです。」
「私も色々
試してみましたが、
このままでは
何を基準に
修正すればいいのか
分かりません。」
「方向性が
決まらないままでは、
これ以上進めるのは
難しいと思います。」
すると。
神崎さんは露骨に
不機嫌になりました。
「今さら?」
冷たい声でした。
私は戸惑いました。
神崎さんは
椅子にもたれながら、
ため息をつきました。
「難しいなら、
最初から
言うべきだったでしょ。」
私は言葉を失いました。
最初から。
そう言われても。
これまでだって、
分からないことは
何度も確認してきました。
でもそのたびに、
「自分で考えて。」
「まずは調べて。」
「それくらい分かるでしょ。」
そう言われてきたのです。
だから私は、
自分で調べて。
自分で考えて。
自分で答えを探してきました。
実際、これまでは
それで何とか
仕事を終わらせてきました。
けれど今回は違います。
方向性そのものが
決まっていない。
判断する人もいない。
基準もない。
だから私は、
このままでは
進められないと
報告しただけでした。
それなのに。
神崎さんは、
もう私の話を聞こうとは
しませんでした。
「今になって
進められませんって
言われても困るの。」
「できないなら、
もっと早く
相談するべきだったでしょ。」
そして最後に。
神崎さんは静かに言いました。
「この案件、
最初に担当したのは
桜井さんよね。」
嫌な予感がしました。
「最後まで責任持って
終わらせて。」
私は返事ができませんでした。
気づけば、
責任だけが
私の前に残っていました。
取引先も。
上司も。
少しずつ距離を
取り始めていたのです。
その日の夕方。
丸山さんから連絡が入りました。
「契約書どおりに
進めてください。」
私は画面を見つめました。
昨日までとは
明らかに態度が違う。
誰かに言われている。
そんな気がしました。
でも、
私には証拠がありません。
ただ一つ分かることは、
みんな少しずつ
責任から離れようと
していることだけでした。
オフィスの窓の外は、
いつの間にか
暗くなっていました。
今日も残業です。
誰もいないフロア。
静かなパソコンの音。
積み上がる修正資料。
気づけば終業時間を
大きく過ぎていました。
私は近くの
コンビニへ向かいました。
温かいお弁当でも買おう。
少しだけ気持ちを
切り替えたかったのです。
店を出た時でした。
突然、
大粒の雨が落ちてきました。
最初は数滴。
でも一瞬で
土砂降りになりました。
私は立ち尽くしました。
傘を持っていません。
走るしかないかな。
そう思った瞬間。
頭の上から雨音が消えました。
振り返ると、
そこに彼がいました。
いつものコンビニで
見かける人。
いい香りのする人。
何度も見かけているのに、
まだ名前も知らない人。
彼は何も言わず、
私に傘を差し出していました。
「駅までなら。」
それだけでした。
私たちは並んで
歩き始めました。
雨音だけが
静かに響いていました。
不思議でした。
ほとんど
話したこともないのに、
なぜか安心したのです。
しばらく歩いた後。
私は思い切って聞きました。
「仕事で少し
困っていて……」
彼は黙って
耳を傾けてくれました。
私は思わず話していました。
上司からは
「いい感じで」と
言われること。
取引先からも
「何か違う」と
言われること。
でも誰も具体的な答えを
持っていないこと。
彼は少し考えてから
言いました。
「人の言葉は、
意外と簡単に
変わりますからね。」
私は黙って聞いていました。
「その時の立場や状況で、
言うことが変わる人もいます。」
「だから誰が何を言ったかより、
まず残っているものを
見た方がいいですよ。」
「残っているもの?」
私が聞き返すと、
彼は静かに答えました。
「契約書とか、
メールとか、
議事録とか。」
「後から確認できるものです。」
私は少し驚きました。
そんな見方をしたことが
なかったからです。
彼は続けました。
「仕事の問題って、
意外とそこに
答えが残っていることが
多いです。」
その言葉が、
なぜか心に残りました。
やがて駅が見えてきました。
改札の前で、
私は大きく息を吸いました。
本当は、
ずっと後悔していたのです。
何度も見かけていたのに。
話しかければよかったと。
もう会えなくなるかもしれないと
思った時に気づいたから。
そして。
人生で初めて。
自分から言いました。
「もしよかったら……」
彼は静かに
こちらを見ました。
「明日、
ご飯でもどうですか?」
一瞬の沈黙。
私は恥ずかしくなりました。
でも彼は笑いました。
とても優しく。
「喜んで。」
私は少しだけ笑いました。
改札へ向かう途中、
ふと振り返りました。
彼はまだそこにいました。
そしてその時、
初めて気づいたのです。
彼の右肩だけが、
雨で濡れていたことに。
私を守るように。
その時の私は
まだ知らない。
彼が何者なのかも。
そして、
「残っているものを
見た方がいい」
という言葉が、
数日後、
私を千ページの
契約書との戦いへ
導くことも。
つづく
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🎧 第1章・第4話 (#1-4)
「突然の雨と、一本の傘」
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