(#1-3) カタツムリたちの処世術|「最初から、正解はなかった。」

 


【カタツムリの言葉 #1-3】


「正解を知っている人は、

誰もいなかった。」


今日も一日、

お疲れ様でした。


私は桜井美咲。


昨日までの私は、

ずっと自分が悪いのだと

思っていました。


上司に言われた

「わかるよね?」


取引先に言われた

「もう少しいい感じで

お願いします。」


きっと私の理解が

足りないのだと。


きっと私の経験が

足りないのだと。


そう思っていました。


だから何度も

資料を読み返しました。


何度も企画書を

書き直しました。


何度も修正しました。


それでも答えは

見つかりませんでした。


朝になっても。


昼になっても。


画面を見つめ続けても。


私の中にあるのは、

「これでいいのだろうか」

という不安だけでした。


そして今日。


私は初めて

勇気を出しました。


分からないまま

悩み続けるより、

聞いた方が早い。


そう思ったのです。


まず私は上司の

神崎彩乃に聞きました。


「すみません。

“いい感じ”というのは、

具体的にはどのような

イメージでしょうか?」


神崎さんは少し

考えてから言いました。


「うーん……

取引先に聞いてみたら?」


私は一瞬固まりました。


でも気を取り直して、

今度は取引先の

丸山さんへ連絡しました。



「申し訳ありません。

具体的にどの部分が

違うのでしょうか?」


丸山さんは困ったような

声で言いました。


「私も上から

そう言われただけなんです。」


私は思わず聞き返しました。


「では、

どなたが判断されている

のでしょうか?」


少し沈黙が流れました。


そして返ってきた答えは。


「神崎さんの意見は

どうでしょうか?」

でした。


私は受話器を持ったまま、

しばらく動けませんでした。


神崎さんは

丸山さんに聞けと言った。


丸山さんは

神崎さんに聞けと言った。


まるで責任の

キャッチボールでした。


誰もボールを

持ちたがらない。


誰も最後の判断を

したがらない。


気付けば、

そのボールだけが私の

足元へ転がってくる。


私は何度も

経験してきました。


「前と同じで。」


「適当に。」


「うまくやって。」


「いい感じで。」


言葉はある。


でも中身がない。


曖昧な言葉だけが

増えていく。


そして失敗した時だけ、

責任の所在が探される。


誰も悪い人ではないの

かもしれません。


でも誰も答えを

持っていない。


誰も決めたくない。


誰も責任を負いたくない。


その結果、

一番下にいる私だけが

答えを探し続けている。


そんな気がしました。


私はその日、

初めて理解しました。


最初から正解なんて

存在しなかったのだと。


みんな正解を

知っているふりを

していただけ。


みんな不安だった。


みんな分からなかった。


だから曖昧な言葉を使う。


だから責任を渡し続ける。


それは一種の

生存術なのかもしれません。


殻に隠れて身を守る。


私は心の中で、

そんな人たちをまた

「カタツムリ」と呼びました。


もちろん、

私もその一匹です。


本当は不安なのに、

平気なふりをしている

のだから。


気付けば外は

暗くなっていました。


今日も残業です。


オフィスには私しか

いません。


モニターの光だけが、

静かに机を照らしています。


帰り道。



私はいつもの

コンビニへ寄りました。


疲れた日は、

そこでお弁当を買って

帰るのが習慣でした。


そしていつも同じ時間。


あの人を見かけるのです。


どこか優しそうで。


清潔なシャンプーの

香りがして。


柔軟剤の香りがふわりと

残る人。


なぜか少しだけ

安心する人。


名前も知らない。


話したこともない。


それなのに、

仕事で疲れた夜に見かけると、

少しだけ気持ちが軽くなる

不思議な人でした。


でも今日はいませんでした。


昨日も。


一昨日も。


そういえば、

もう何日も見ていない

気がします。


別に知り合いでも

ありません。


名前も知りません。


それなのに少しだけ

気になりました。


私は冷めたお弁当を持って、

夜道を歩きます。


ため息が漏れました。


仕事のこと。


終わらない修正。


答えのない会話。


そして少しだけ、

姿を見なくなった

あの人のこと。


私の夜は、

まだ終わりそうに

ありません。


けれど私はまだ知らない。


この案件の裏で、

もっと大きな問題が静かに

動き始めていたことを。


そして数日後。


雨の夜。


私は再び、

あの人と出会うことになる。


つづく

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🎧 第1章・第3話 

(#1-3) カタツムリたちの処世術|

「最初から、正解はなかった。」 


▶︎ 本編音楽はこちら

https://youtu.be/rXcDSruCUHY 


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